あなたと過ごす時間（仮題）

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あなたと過ごす時間（仮題）

企画・原案：芳田尚哉
執筆：ＲＤＸ
編集：ＳＴＵＤＩＯ　ＳＡＩＸ

―始まりの話―

　　　　

　一面の花畑が広がっている。
　赤、
　白、
　黄、
　様々な色の花。
　そして生い茂る緑色。
　空は綺麗な青。ところどころが雲でうっすらとした青になっている。
　そんな花畑で、鍔の広い白い帽子を深々と被った女性が両手を広げてくるくると楽しそうに舞っている。白いワンピースのスカートがふわりとたなびく。
　その側には、イーゼルを立て、スケッチブックに目の前の光景を描いている男が立っている。もっとも、彼はその女性を描いているというわけではないようで、かといって目の前の花畑を描いているわけでもない。事実、そのスケッチブックに描かれているのは、カーテンがたなびく窓際でロッキングチェアに座っている少女だった。

　彼はこれまでも幾度となくその絵を描いてきた。
　ロッキングチェアに座っている少女が誰なのかは彼自身も知らない。
　だが、そんな事は関係ない。ただ描かなければという衝動に駆られて描くだけだ。それでいい。そんな些細な事は気にするような事ではないのだ。
　彼はその絵を自動筆記のごとく描いている。
　その早さも普通の人とは比べものにもならない。普通の人よりは遥かに早い手の動きで、あっという間に描き上がってしまう。
　女性はそんな男を見て微笑み、その場にしゃがみ花を眺め始める。別に退屈したわけではない。
　ぽかぽかとした日差しの中、二人はそれぞれその時間に幸せを感じていた。
　知り合ってからそれほど経ったというわけではない。むしろ知り合って間もない。
　だが、その結びつきは誰にも負ける気がしないし、断ち切る事もできないだろう。

〝血の絆〟

　まさにその言葉の通りなのだ。
　血縁関係などではもちろんない。
　そういうものとは全く違う概念が二人の間にはあった。
　心で通じ合っている。
　そう表現しても差し支えないだろう。
　ゆっくりとした、たゆたうような時間が二人にとっては幸せだった。
　世界から見捨てられた時間を生きてきた二人にとっては幸せ以外のなにものでもなかった。
　だからこそ、こうした時間が大切だった。
　小一時間そうして過ごしていたが、二人とも示し合わせたように互いを見た。そして小さく頷くと、男はイーゼルを片付け始める。
「また描いていたんですか？」
　女性は男が閉じようとしていたスケッチブックを覗き込む。
「ええ、まあ」
　男は少し照れ臭そうに頷いた。
　一緒に過ごすようになってから何度か繰り返されてきたが、それでもまだ恥ずかしさはなくならない。
　目の前の景色を描いていた頃はそうでもなかった。
　だが、こうして二人で旅をするようになって……そう、このロッキングチェアの少女の絵を描き始めたのも二人で旅をし始めてからだった。
　ふと描いてしまうのだ。
　それは無意識の行動といっていいだろう。
　最初は二人とも不思議に思っていたが、次第に当たり前のようになってしまっている。
　さして気にするような事でもない。
「さて、そろそろ行こうか」
　荷物をまとめるとリュックを背負う。
「そうですね。……といっても、どこに行きましょうか？」
　そう、二人の旅に目的地はない。ただ、流されるままに旅を続けている。
　そういう旅がしたかったというよりも、そういう旅になってしまったというところが真実だ。
　だが、二人はそれを気に入っている。
　別にどこでもいいのだ。
　二人がいたセカイから離れる事ができれば。
　そして、二人で旅を続ける事ができれば。
　それだけでいい。
「とにかく行こうか」
　と、二人は草原を風を感じながら歩く。
　ぽかぽかとした太陽に幸せを感じる。
　何気ない日常。
　自分たちを知らないセカイ。
　始まったばかりでなかなか慣れないが、それはそれで楽しい。
「ねぇ、あそこ……」
　しばらく歩いた所で梨架がなにかを見つけた。史和もほとんど同時にそれを見つけていた。
「ああ、すごいな……」
　二人の視線の先には、大きな白亜のお城があった。
「行ってみませんか？」
　梨架の言葉に史和は頷いた。
「決定ですね」
　二人は誘われるようにそのお城に向かった。

―時計の城―



　目の前には大きな城門がある。空まで続いているのでは、と思えるほどの城壁に負けず劣らず大きな門だ。
　門は開かれており、様々な人々が行き交っている。
　中からはざわざわとした喧噪が聞こえてくる。かなり賑わっているらしい。
　立派なお城なのだから、それ相応の人がいるのは分かり切っていた事である。だが、ここにきて少し後込みしてしまうのは、二人には仕方のない事だろう。
　他人と関わるのが苦手だった二人にすれば、見えない壁が目の前にあるようなものだ。
　それでも、ここにいる人々は二人の事を知らない。それだけでも充分過ぎるくらい安心感を与えてくれる。
　自分たちを知っている人がいないという事は、自分たちは普通の人間として振る舞う事ができる。そんな当たり前の事が困難だったのだ。
（ここは新しいセカイ。私が虐げられていたセカイじゃない。新しい私になれるセカイ）
　梨架は自分を諭すように繰り返す。
（ここは僕がいたセカイじゃない。新しいセカイなんだ）
　と、史和も自分に言い聞かせる。
「さあ、行きましょう」
　梨架に手を引かれ史和は現実に引き戻される。
「そうですね」
　と、梨架の力に従うように史和も歩き出す。
　城門には、両側に長い棒を持った門番らしき人がそれぞれ二人ずつ立っていた。
　二人は門番の人たちの横を通ろうとした――その時、一人の門番に手にしている棒で進路を阻まれる。二人は面食らい立ち止まる。
「通行証の提示をお願いします」
　見ると、門を通る人たちは例外なくなにかを門番に提示している。
「………………」
　梨架は不安そうに史和を見る。
　行き先も決めずに旅をしている二人である。もちろん、そんなものは持っていない。
「あの……僕たちは旅をしていまして…………その……」
　説明しようとするが、門番にじっと見られては圧倒されて言葉が出ない。
「旅の方……ですか」
　と、門番は二人の上から下までを嘗めるように見る。
　それぞれ荷物を背負っている姿はまさに旅人としか思えない。が、門番の目が史和の背中で止まった。
「それは……なんですか？」
　門番が指したのは、史和が使っているイーゼルだった。
「これは、絵を描く時の道具で……」
「絵、ですか。そうすると、あなた方は絵を描いて旅をされているのですか？」
　史和は梨架を見る。
　どう答えるべきだろうか。
　門番の言葉は、あながち間違いではない。ただ――絵を描いて旅をしているのではなく、旅をしながら絵を描いている……と、言葉遊びのようだが、厳密にはそうなる。
「なるほど、ここに来られるのは初めてですか？」
　と、門番の表情が弛んだような気がした。
「はい……」
　と、史和は小さく頷く。
「そうですか。失礼しました。それではこちらへ」
　と、門番は二人を詰め所のような場所に案内する。
　そこは休憩所として使っているのだろうか。てっきり事務所のような所だと思っ
たのだが、どうやらそうではないらしい。かなり雑然としている雰囲気が漂っているのだが、特になにが置かれているわけではない。どちらかといえば殺風景としているのだが、やはり雑然とした空気を感じる。そんな部屋に、事務机がついでのように置かれている。
　二人を案内した門番は、机の引き出しからなにかの用紙を取り出す。
「戦のない時代ではありますが、事務的な事で申し訳ない。簡単な質問に答えていただけますか。と、その前に写真を撮らせていただきます」
　そう言うと、門番は二人の写真を撮る。その後、名前などを訊いた。もちろん二人はそれに正直に答えた。
「……では、この国に来た目的は？」
「それは……遠くからここのお城が見えたので……是非とも近くで見たいと思いまして……」
　たどたどしいながらも、史和は質問に答える。
「なるほど、観光という事でよろしいか？　だが、残念ですが、城には特別な理由なく入る事はおろか、近付く事も許可されていません」
　門番は事務的に淡々と告げた。
「そうですか……」
　と、梨架は少し淋しそうな表情になる。
「それで、滞在希望日数はどのくらいでしょうか？」
　そう訊かれて二人は言葉を失う。
　もとより時間を気にせず旅をしているのだ。特に予定はない。
「あ、これは一応訊くだけですので、実際にその日に退国しなければならないというようなものではありません。一応、こちらとしても訊かなければならないという事になっていますので――」
　それを聞いて二人は少し安堵した。
「――ただし、永住はできません。特別な理由がない限り、一年以上は滞在する事ができませんが」
　と、門番は付け加える。
　しかし、二人も一年もいるつもりはない。どんなに長くても二週間ほどだろうと考えていた。
「わかりました。とりあえず、二週間……念のため、一月の滞在を希望します」
「一月ですね。わかりました」
　門番はその旨を紙に書き込んでいく。
「それでは、しばらくお待ち下さい。入国証を作成しますので」
　と、門番は席を外して奥の部屋に入っていった。
「緊張しましたね……」
　門番がいなくなると、途端に緊張が解ける。
「本当に。まさか……というか、当然なのかもしれませんけどね」
　小さな街ならともかく、大きな街……これは国家になるのだろう。そこに入るためになんの障碍もないと思うのは浅はかだ。この程度は当たり前と考えるのが自然だ。
　しばらくすると、二人の前にラミネートされた小さなカードを持って門番が戻ってきた。
「これが入国証になります」
　二人はそれを受け取り、しげしげと眺める。
　そこには、名前が記入されており、その横に写真が貼られている簡素なものだった。
「ようこそ我が国へ」
　と、門番は改めて礼をした。
　二人は慌てて礼を返す。
「では、どうぞごゆっくりして下さい」
　と、二人を外に案内する。
　こうして、二人はあの白亜の城の街へと入る事ができた。

　街は想像していた通り、かなり賑わっている。
　門の付近は市場のようになっているようで、いくつも露天が立ち並んでいる。
　その様子がなんとも楽しく、二人はキョロキョロとしながらゆっくりとした足取りで歩いていく。
　二人は気付いていないが、そんな二人を尾けている男がいた。

―時計の城～絵の話～―



「ちょっといいかね」
　一人の初老の男が声を掛けてきた。突然の事に少々面食らいながらも二人は立ち止まった。
「あの……なんでしょう？」
　史和は緊張した面持ちで男に訊く。無精髭のその男の風体は、どう贔屓目に見ても怪しい。自然と警戒してしまう。
「いや、すまんな。わたしは画廊を経営していましてな…………」
　そう言う男の視線は史和の背中にあるイーゼルに向けられている。
　どうも彼はそれを見て声を掛けたようだ。
「画商……ですか？」
　梨架は首を傾げ、史和にしか聞こえないような声で言う。
「そうみたいだな」
　不審な目を向けながらも史和は頷く。
　気さくに話し掛けているだけなのか、本当にこういう気質なのかはわからないが、初対面の相手に話し掛けられるのはどうも慣れない。
「……で、絵を見せてもらえないかね？　もちろん、それなりの値で買わせてもらおうと思うのだが……どうだろうか」
　そう話し掛ける男を信用する事はどうもできない。
　見る前から商談の話をするなど史和の常識にはない。
　そもそも、史和は売るために絵を描いているわけではない。描きたいから描いているのであって、それは彼にすれば記念写真のようなものだ。初対面の人に記念写真を売る人がいないのと同様に、彼も売るつもりはない。
「どうと言われても……僕は絵を売るつもりは…………」
「そんな事を言わず、なにかお持ちでしたら見せて頂けないだろうか」
　断る史和に男はなおも言い寄ってくる。
「あのですね…………」
「そこをなんとか」
　手を前に出し断ろうとするのだが、男は歩んで間を詰めてくる。
　じりじりと圧迫するようにされ、史和は根負けしてしまい、スケッチブックを見せるだけですよ……と、男にスケッチブックを見せる事にした。
　男は史和からスケッチブックを受け取るとパラパラと捲り始めた。
　まだ数枚しか描いていないそれは、本来であればすぐに見終わってしまうはずだった。しかし、男は一枚一枚に目を留め、じっくりと見入っており、なかなか次の絵に進まない。その目には男が本当に画商であると思わせるものがある。それに鬼気迫るものを感じ、二人は黙ったままその様子を見ているしかできない。
　そもそも、ここは人の多い大通りだ。その真ん中で立ち止まってこういう事をし
ていると歩いている人たちの視線を集めてしまう。
　それはどうにも耐えられないものがある。
　なんとかその場を離れたいとも思うのだが、どうもできそうにない。
　早く見終わらないかな……というのが、今の二人の気持ちだった。描かれている
枚数が少ないのがわずかな救いとなっていた。
　そんなちょっとした拷問にも似た時間も男がスケッチブックを閉じた事で終わり
を告げた……かに思えたが、まだ続くようだった。
　スケッチブックを史和に返した男は史和に詰め寄り、
「この絵を売ってくれないだろうか」
　突然そう言ってきた。
「えっ？」
　史和は面食らうしかなかった。つい先程売らないといったにも関わらずなのだ。
「だから……僕は…………」
「そんな事を言わずに！　お願いします。こんな素晴らしい絵は見たことがない。一枚につき一〇〇〇〇ステーロ出そう。だから売ってくれないだろうか」
　その金額を聞いて、史和は頭の中で計算してみた。史和がそのスケッチブックに描いたのは八枚だと記憶している。
（えっと……一ステーロが……で…………という事は……約二五〇〇〇〇円！　…………で、それが八枚だから…………おおよそ二〇〇〇〇〇〇円！　冗談だろ？）
　一枚一〇〇〇〇ステーロとはどう考えても破格である。冗談としか思えない。きちんと描かれたものならいざ知らず、ただの鉛筆のスケッチである。それが有名な画家のものなら安いのだろうが、史和は無名だ。もとよりこの世界の住人でないのだから当然知っている人はいない。
　そんな通りすがりの男の絵をそんな値で買おうとは……。
　だいたい、二〇ステーロもあればかなり贅沢な食事を摂る事ができる。簡単にすまそうとすれば、五ステーロもあれば充分なのだ。
　胡散臭いというよりも、目の前の男が不思議でしょうがない。
　確かに旅の資金としては必要な金額かもしれない。しかし、そんなに価値があるものなのだろうかと思ってしまう。
　そこまで高値をつけられると逆に不安になってしまう。
　いや、それ以前にこれは売り物ではない。そう、もとより値段などつけられないわけだし、どうでもいいものなのだ。なんと言われようとも売る事はできないのだ。
　そう考えている史和を見て、安すぎると思案していると思ったのだろうか、男は覚悟を決めて口を開いた。
「……どうだろうか。少ないですかな……。確かにこのような素晴らしい絵だ。…
………そうですね、ここは思い切って一枚当たり一〇〇〇〇〇ステーロ出そう。それでなんとか売ってもらえないだろうか」
　なにを思ったか、男は〝〇〟を一つ増やしてきた。
　明らかに常軌を逸しているとしか思えない。
　なにかの悪戯としか思えない。
　いっそ、これは悪戯だと言われた方がしっくりくる。
　しかし、目の前の男はあまりにも真剣で、これでも足りないのかと悩み、その金額をどう工面しようか考えていた。私財を売り払ってしまおうか……しかし、足りるだろうか……それが目下の悩みの種だった。
「あのですね……――」
　沈黙を破って史和が口を開いた。
　男はハッとして顔を上げる。いくらの値を言われるのか心臓が止まりそうになる。あと五〇〇〇ステーロくらいなら私財を売り払うなり、担保として借りるなりできるかもしれないが、それ以上は無理だ。口惜しいが諦めるしかない。
「――申し訳ないですが、売る事はできません」
「――――」
　男は本当に心臓が止まるかと思った。
「あと五〇〇〇出しましょう。それでなんとか」
　男は自分の限界の値段を告げる。
「いえ、お金の問題ではないんです。これは僕にとってかけがえのない宝物だ。いくらお金を出されても売るつもりはありません」
　史和はそう言い切った。
「…………どうしても譲っていただけませんか」
　男は地面に手をつき、頭を下げだした。道行く人の視線が集まる。
　往来でそこまでされると、史和の良心が痛む。断るだけでも申し訳ないとさえ思っているのに、これでは…………。
　男のこれは、ある意味において卑怯な行動だ。周囲には史和たちが悪いように見えているかもしれない。本当のところはどうあれ、少なくとも見られている方はそう感じてしまう。
　どうも、このままでは男はずっとこうしていそうな気がしてくる。それはそれで心苦しい。
　突然声を掛けられたのは史和であり、このまま男を残して立ち去ってもいいのかもしれない。たとえそうしたとしても史和たちに非はないだろう。しかし……。
　史和は梨架を見る。しかし、梨架も困り果ててしまっている。
　ここは自分でどうにかするしかないようだ。
　史和は右手を額に当て考え込む。
　どうすればいいものか……。
　だが、浮かんでくる答えはこれしかなかった。
　売るための絵を描こう。
　もちろんスケッチではなくきちんと描くのだ。それしかないだろう。
　そう決めると史和はしゃがみ込んで男に言った。
「わかりました。このスケッチを売る事はできませんが、別に一枚描きましょう」
　その言葉に男は勢いよく顔を上げた。もう少しで史和の顎を直撃するところだった。
「本当ですか」
　男からは喜びが溢れていた。表情はもとより、全身からそれが感じられる。
「ありがとう、ありがとう」
　男は史和の手を握り、何度も何度も礼を言った。
「あ、いや……そこまで喜ばれると…………」
　と、史和の方が萎縮してしまう始末である。
（しかし、また描く事になるとはな……）
　もちろん、旅の資金のために描かなければいけない事もあるとは思っていた。しかし、こういう形でそうなるとは思ってもいなかった。
　それも予想外に突然の事だったため、スケッチをするため以外の道具を持っていない。
「……それでですね……絵を描く道具を持っていないのですが……」
　史和は申し訳なさそうに男に事情を説明する。
「わかりました。必要なものはこちらで揃えます。……そうだ、とりあえずわたし
の画廊にいらしてください。多少の道具は揃えてあります」
　男は立ち上がると、颯爽と歩きだす。
「申し訳ない。成り行きでこんな事に……」
　史和はこうなってしまった事を梨架に謝罪する。
「謝る事ではないと思いますよ。あそこまで頼まれれば断るのは無理でしょうし…
…。私としても、あなたが描いた絵を見てみたいですから」
　と、梨架は笑みを浮かべながら言った。その無邪気な笑顔を見て、史和は少しだけホッとする。
　二人は男のあとに従い歩き出した。


　男に連れて来られたのは小さな石造りの建物だった。看板などの表示がなく外か
らはなんの建物なのかはわからない。が、男の話からするにそこは彼の画廊らしい。
　小さいといっても外から見る限りは三階建てである。が、どこか小さな感じがする。間口が小さいからなのか――その建物は〝鰻の寝床〟を想像させた。
　男は扉の施錠を解き二人を中に招き入れる。
　中にはいるとわずかに黴臭いような匂いがした。それに混じって油の匂いも微かに感じられる。
　建物の中は想像通り、まさにそういう間取りだった。
　二人が通れるほどの狭い通路の両脇には綺麗な額に納められた油彩画が飾られている。が、それらからは、どこか暗い印象を受ける。それは決して通路が薄暗いせいではないはずだ。
　彩色豊かに描かれているそれらではあるが、それでいて鮮やかに感じられる事はない。
　どうやらそれは史和だけが感じているわけでもないようで、隣を歩く梨架も首を傾げながらそれらを見ている。
　男は無言のままなおも奥に進んでいく。
　と、突き当たりになる場所に階段があった。下に降りる階段もあるので、やはり地下室があるようだ。絵画の収納庫でもあるのだろう。
　男は下ではなく上に向かう。
　二階に上がるとやはりそこも黴臭い匂いがわずかにした。
　別に史和が特に敏感というわけではない。その証拠に梨架も匂いが気になるのか手を鼻に当てている。
　わずかに見えた感じでは、この階には水彩画が飾られているようだ。
　換気が行われていないのだろうか、これでは絵に悪影響を及ぼしてしまう。
　そんな感想を抱いた史和は、彼のために絵を描くのをやめようと思い始めていた。もしこんな場所に飾られるのだとすれば、自らの子どもにも等しい絵に申し訳が立たない。可哀相だ。
　史和がそんな事を考えているとは知る由もない男は、さらに上の階を目指して階段を上る。
　そこは扉のある部屋があった。男は無言で扉を開ける。どうやらここに入れという事らしい。
　とんでもない所へ来てしまったと後悔し始めていた史和を迎えたのは胸像だった。史和は少し驚いて後ずさる。史和とて別に胸像に驚いたわけではない。
　その胸像は胸像とはとても思えないものだったのだ。まるで、人間をそのまま石膏で固めてしまったような――芸術という枠を超越してしまったようなできだったのだ。
　それだけではない。そんな胸像が数えきれないほど、部屋を埋め尽くさんとする数があるのだ。
　そういえば……。
　胸像に気を取られていたが、ここは今までと違って黴臭くない。それどころか微かに甘いようないい匂いがする。
「あら？　これは……ヘリオトロープね」
　梨架が呟く。
「へり……なんだい？」
　聞き慣れない言葉に史和が訊く。
「ヘリオトロープ。この香水の名前よ。これはヘリオトロープの香りね」
「そうなのか……」
　香水の事はよくわからない史和はとりあえず頷いた。やはり女性だからだろうか、そういうものには詳しいのだろうと史和は感心した。
「ああ、この匂いですか……。気に障りますかな？」
　二人の会話が聞こえたのだろう、男が訊いてくる。
「いいえ、そんな事はありません」
　梨架は柔和な笑みで答える。
「そうですか。それならいいのです。……この先の部屋に画材があったと思うのですが……」
　そう言うと、男はその部屋の奥に向かおうとする。が、部屋を占領している胸像がそれを阻む。
「なんとか足場を作って下さいね」
　そう言いつつ、自分も埋もれそうになっている。手で倒れそうな胸像を支えているが、他の場所が崩れそうになり、そこを支えようとすれば今までの所が……とい
う風に、どうしようもない状態になってしまっている。
「それより、この胸像はなんですか？」
　胸像に埋もれないように梨架を庇いながら史和が訊いた。
「これですか――」
　男は優しい視線を胸像に向ける。
「――これは、有名な彫刻家から買い付けたものなんですよ…………と、言いたいのですが、そうではないのが事実ですな」
　男は自嘲するように笑う。
「……これは、わたしが創ったんですよ。画廊の経営をしていますが、時折こうして趣味で彫るんです。趣味……のはずなんですがね、あまりに集中してしまうようで、自分でも気付かない間に時間が過ぎてしまって……。実は今日も久しぶりに外に出たんですよ。そうですね……十日は経っているようですね」
　男は自らを揶揄しながらも饒舌に喋り続ける。
「お蔭で絵には申しわけない事をした。お気づきかと思いますが、すっかり手入れや換気を忘れていたんですよ……。まあ、ガッカリされたでしょうな」
「いえ……そんな……」
「本当の事を言ってもらって構わない。それが事実なんだから。で――なんだ、とにかく久しぶりに外に出てあんたに会った。絵を見た。一目で惚れた。この絵しかない、そう思ったんだ」
　そう言うと、男は床に目を向けた。ふと見える表情には哀愁が漂っている。「ここにある絵はどれも悪くはない。しかし――よくもない。あんたならわかるはずだ。あんな素晴らしい絵を描く事ができるあんたなら」
　男は史和をまっすぐ見る。
「そんな……買いかぶりすぎですよ」
「そんな事はない！」
　謙遜の言葉を言う史和を叱咤するように強く言い放つ。
「あんたの絵は、今まで見たどんな絵よりも素晴らしい。高名な画家と云われている者たちとも比べるなんて勿体ないくらいに素晴らしい。……別に、褒めてあんたに気分良くなってもらおうなんて思っちゃいない。事実を述べているまでだ。これでも画商のはしくれ、目にだけは自信がある。いいものを見て、それを素晴らしいと感動する。そう感じるのはなんて事はない、誰にでもできる事さね」
　男は小さく笑った。
「……だが、本物に出会えるやつはそうそういない。わたしは幸運だった。こうして本物に巡り会う事ができた」
　男は史和を指す。
「…………まあ、そういうわけだ。あんたは商売のために描くのが嫌なのかもしれないが、ここは是非とも描いて欲しい。そして、ここに飾らせて欲しい！　どうだろうか」
「いや……別に描くのが嫌というわけではないんです。実際、以前にそうしていましたから。ただ……僕の絵がそれほどの価値があるとは……」
　史和の絵を評価する者は少なからずいた。しかし、それがどうも自分の意見ではないような気がして、それらを一切聞かないようにした。
　自分が本当に思った事ではないのに、自分の言葉でない言葉を言われても判断できない。
　それに、その言葉に踊らされるのもまっぴらだった。もっとも、こうして拒否を続ける事も踊らされているからこそなのかもしれないが。
　だから絵の評価を全て否定してきた。
　だが――この男の言葉は信用に足るかもしれないと思い始めていた。
　芸術を理解してくれる。
　金銭的価値ではなく、純粋に芸術として見てくれる。
　史和とて、金銭的価値が全く嫌いというわけでもない。それを職とし、食のためにしなければならないという事も、もちろん理解している。彼が嫌うのは、ただの見栄のみで絵画を鑑賞・所有する者である。
　絵のぞんざいな扱いを見て心が揺らぎはしたが、史和も絵に没頭すれば周りが見えなくなってしまう質であるため、他人事とは思えない節もある。
「描きましょう――」
　少し心が揺れもしたが、やはり描く事に決めた。
　それはこの男を信用した事もあるが、他にもう一つ理由があった。
　史和は男をまっすぐ見る。
「――ただし条件があります」
　それは前々から考えていたものではなく、今ここで……まさに、たった今思いついた事だった。
「条件……ですか？　報酬なら……」
「いえ、そうではありません。条件というのは、あなたに額を創ってもらいたいのです」
　そう、それが史和が思いついた事だった。
　自分の絵の周囲を飾る額。素っ気ないものでは面白味がない。
　額を含めて一つの絵となる――そういうものを以前より望んでいた。が、あいにく史和は彫刻は得意ではない。誰かに依頼するにしても、史和が納得できる者はいなかった。
　だが、この目の前にある彫像。これを彫る事ができるなら期待できるかもしれない。そう考えての提案だった。
「額……ですか」
　突然の提案に男は唖然とする。それこそ、ぽかんと口を開けている。
「はい。こんなに素晴らしいものを彫れるあなたなら頼めると思いまして……。平面の彫りは苦手ですか？」
「そんな事はありませんが……」
「では、お願いします。それが条件です」
「………………」
　男は少しばかり考えたが、
「わかりました」
　と、史和の条件をのむ事にした。


　史和は早速絵の準備に取り掛かる。
　必要な材料や道具を用意してもらっている間、史和は額縁のラフ画をスケッチブ
ックに描き始める。
　絵の構想は出来上がっている。
　額縁はそれを引き立たせるものにするにはどういうデザインをどうしようかと思
案する。
　が、その時間もあっという間だった。史和は取り憑かれたかのように鉛筆をはし
らせる。
　そして、瞬く間にそれは出来上がった。史和が描いたのは蔦と花が絡み合ってい
るようなものだった。緻密なデザインで、それをそのまま彫る事ができるのは余程
の技術が必要となる。それこそ、彼にしかできないだろう。
　それを男に渡す。
　男はそれをしばし見て頷いた。
「わかりました。やりましょう。……そうそう、これでいいかね？」
　史和は五ミリほどの厚さの板を用意してもらっていた。
「これで結構です」
　史和はそれを受け取る。
「どうするの？」
　という梨架の質問には、
「見ていればわかるよ」
　とだけ答えて作業を続ける。
　史和はバケツに水を汲み、刷毛をとって紙を濡らし始める。
「あ、え…………」
　描き始めるのかと思いきや、突然紙を濡らし始めた史和の行動に梨架が声を上げ
る。水彩画を描く者にとっては当たり前の事なのだが、描かない者にとっては理解
できない行動だろう。
「え、ど、どうして…………」
「ああ、これは水張りといって、紙を伸ばすためにするんだ」
　と、梨架に説明を始める。
　紙は水を吸うと伸縮してしまう。そのため、先に濡らして伸ばしきっておく。そ
うして、描いている途中に伸びる事を防ぐ。と同時に、絵の具の伸びもよくなる。
故に、これは水彩画を描く際には大事な準備なのだ。
　そういう作業を見た事がない梨架にとっては、史和の行動は驚きの連続だ。
　紙の両面を濡らして用意してもらった板にピンと伸ばして貼り付ける。そして、
紙の隅を小さな釘で打ち付けていく。だが、史和の手つきはどうも危なっかしい。
思わず目を瞑りたくなってしまう。
「どうしました？　釘打ちは苦手ですかな？」
　それを見ていた男が寄ってくる。
「いえ……やはり片手だとどうしても上手くできないんですよ……」
「………………」
　梨架はなんとか話を逸らそうと試みるが、どうもできそうにない。自分がそうで
あるように、史和もそれに触れられたくはないだろうと想像できる。が、どうにも
言葉が出てこない。
　その答えを聞いた男は首を傾げる。見たところ史和の身体に変な所はない。きち
んと両手もある。なのにどうして片手でするのか。気になった男は史和に訊く事に
した。
「どうして左手を使わないんです？」
「……それは………………」
　史和は少しばかり逡巡する。
　ふと視界に梨架が入る。梨架はごめんなさいと謝っているのか、申し訳なさそう
な顔をしている。それを見た史和は、大丈夫だよ、とニッコリと笑いながら小さく
首を振り頷く。
「実は僕、左半身が不自由なんですよ」
「――――」
　それを聞いて男は言葉を飲んだ。そして、自分が犯してしまった失態を悔いる。
「見た限りでは健常なんですけどね。感覚――そうですね、特に触覚がないんです
。そういうわけで、左手はほとんど飾りなんですよ。もちろん、動くには動くんで
すけどね」
　と、史和は自嘲気味に笑いながら答える。
「そ、そうだったんですか……。申し訳ない。訊いてはいけないような事を………
…。本当に申し訳ない」
　男は何度も何度も頭を下げて謝罪の言葉を述べる。
「いえ、そんなに気にしないで下さい。これが僕なんですから。謝られると、なん
だか自分を否定されたような気になってしまいますよ」
　と、どこまでも優しい笑顔で言う。それが相手の罪悪感になってしまいはするの
だが、史和にそういう気はない。本当に自分の一部として認めて受け入れている。
他人が気にしているだけで、本人にとっては当たり前でしかないのだ。
「では、わたしが打ちましょう……」
「……そうですか。では、お願いします」
　ここで断る事もできたが、それでは相手を無下にしてしまいかねない。史和はな
んとも思っていないが、相手は謝罪をしなければ気が済まないだろう。そう思って
史和は任せる事にした。
　そうして浮いた時間、史和はリュックの中からナイフと研ぎ石を取り出し、片手
でナイフを研ぎ始めた。
　どうやらそれには慣れているようで、危なっかしいと思えるところはなかった。
それがいいのだが、
「あの……どうしてナイフを研いでいるの？」
　梨架がそんな史和の様子に疑問を感じる。
　これから絵を描くのだ。それにナイフがいるとは到底思えない。少なくとも、彼
女にその意図は想像できなかった。
「これは、絵を描くのに必要なんだよ」
　絵を描くのにナイフが必要？
　梨架は首を傾げる。
　史和が書こうとしているのは水彩画だ。絵をあまり描いた事のない梨架だが、常
識から考えてナイフが必要とはどうしても思えない。
　どう使うというのだろう？　想像できない。
　第一、ナイフとはものを切るものであり…………そんなナイフに彼女はいい思い
出を持っていない。
　彼女にとってナイフとは、自らを傷付けるための最も身近な道具だったのだから
。嫌悪感とまではいかないまでも、それに近いものを感じてしまう。
　今でも、時折その当時の事を夢に見る。
　鏡の前で自分に嫌悪感を感じ、自らを傷付け、その生命活動を止めようとした事
……一度や二度ではない。その都度、躊躇ってしまって未遂で終わるものの、小さ
な傷は身体に刻みつけられる。
　それを救ってくれたのが、彼女が〝天使様〟と呼んでいる少女だった。太陽のよ
うに彼女を照らし出してくれたその〝天使様〟を彼女は生涯忘れる事はないだろう
。〝天使様〟はまさに彼女の命の恩人なのだ。
　その〝天使様〟は近くにはいないけれど、今は史和が側にいてくれる。今の彼女
にとって、史和は〝天使様〟なのだ。
　その〝天使様〟に初めて会った事を思い出すと、ぽうっと胸が温かくなる。
　梨架はそれを温かく包み込むように胸に手を当てる。
「そうですね。絵を描かない人には想像できないでしょうね」
　と、男が釘を打ちながら会話に参加してくる。
「確かにそうですね。僕もあまり使う事はないんですが、今回はどうしても使わな
いといけないもので……」
「ほう……構想はできているんですね……と、失礼。当然でしょうね。なにせ、構
想ができていないと、額縁を決める事なんてできませんからね」
　と、二人は楽しそうに会話を続ける。
　絵に関しては完全に素人である梨架は、容易にその中に入っていけない。
　だが、楽しそうにしている史和を見ているのは嫌いではない。
　むしろ史和が幸せにしていると自分も幸せな気分になれる。
　絵を描いている時が一番幸せそうなので、疎外感はあるものの梨架もその時間が
嫌いではない。
　優しい表情で史和を見つめる。
「さて、そろそろ準備もできましたし、描き始めましょうか」
　と、たった今研いだナイフを見ながら言う。
　やはり梨架には絵描きの行動とはとても思えない。
　そうして梨架が首を傾げている間に、史和はリュックからパレットなどの道具を
取り出し、準備を進めていく。
　男は男で、史和が指定した額を彫り始める準備をしている。当たり前のようにヘ
リオトロープの匂いが部屋に充満する。
「あの……この匂いが気に障るようでしたらすぐにやめますので」
「いえ、構いませんよ」
　確かにその匂いは慣れない史和には強くはあったが、決して不快なものではない
。むしろ、なんだか新鮮な気持ちになれる。
　そんな会話をしつつも準備は進んでいく。
　史和はベルトがついた特製のパレットを左手につける。これで、左手の力加減が
わからなくても落とすような事はない。そこに絵の具を出していく。
　バケツに水を汲み、そこに大小さまざまな太さの筆を五本浸ける。
　そして、四〇号サイズの紙に向かい合う。
　本当なら三〇号でいいのだが、今回は額の大きさを考慮してこの大きさにした。
　スケッチブックに向かう時とは全く違う緊張感がある。
　それにしても、こうしてきちんと描くのは久しぶりである。旅に出てからという
もの、ずっとスケッチブックに鉛筆で描いていた。筆を出すのも旅に出てから初め
てではないだろうか。
　今までしていた事をしばらくしていなかっただけなのに、なんだか初めて描くよ
うな気分になってくる。
　史和は大きく深呼吸すると、一番太い筆を手にとった。


　史和の筆が紙の上を踊るように動いていく。
　何本もの筆を巧みに使い描いていく。
　――いや、それは描いているというよりは…………。
「すごい…………」
　額を彫る合間に史和の絵を見た男は言葉を失った。
「これは、描いているというよりも、絵が浮かび上がってきているかのようだ……」
　そう、色をのせているというよりも、筆でなぞられた場所に絵が浮かび上がってきているという表現の方が正しいようにさえ思えてくる。
　それはまるで魔法のようだった。
　しかも、その速度が尋常ではない。
　太さの違う筆を巧みに使い分け描いていく。
　時には水だけをつけ、その箇所に絵の具を流すように置いたりと、梨架には未知の光景が続いている。
　鬼気迫るものを感じ、男は史和に見とれてしまう。それもまた魅力なのだ。
　しばらく見とれてしまっていたが、ハッと自分がしなければいけない事を思い出し、男は作業を再開する。
　史和の絵に見とれていた彼だが、そんな彼の彫りも尋常でない早さである。
　緻密で細かな作業が必要とされるそれを、彼は的確に、なおかつ素早く彫っていく。
　そんな二人の芸術家を目の前にして、梨架はただただ見ているしかできなかった。
　邪魔をしてはいけないというよりも、二人は完全にセカイに没頭してしまっているため、声を掛ける事すらできない。
「ねぇ……下書きってしないんですか？」
　それでも、沈黙に耐えかねて梨架が史和に訊いた。
　それは男も同じだった。彼も気にはなっていたのだが、訊くタイミングがなかった。
　どんな絵描きでも、下書きというものはするはずだ。少なくとも彼は今までに下書きをしない絵描きを見た事がないし、聞いたこともない。
「それは、僕の頭の中に下書きが出来ているんですよ」
　と、筆を止める事なく史和が答える。
「頭の中にきちんとした下書きがあって、それが紙の上に見えない線としてあるんです」
　その言葉を聞いて、男はわかるような気がした。
　自分も胸像を彫っている時は、明確なモデルがあったわけではない。
　だが、こう彫らなければならない、という明確なものはあった。それは、自然と石から発せられているかのような……。
「なるほど……やはり、あなたはすごい」
　そう言いながら、男も彫り中断する事なく答える。
　梨架は自分で訊いておきながら、その感覚がよくわからなかった。芸術家特有の感覚なのかしら？　と、思うだけだ。
　それでも、目の前にいる二人がそれぞれの分野に関してかなりすごいという事だけは理解できる。
　それぞれまさに魚の水を得たようだった。
　一心不乱に打ち込んでいる二人を、梨架は羨ましそうに眺めている。
　自分もなにかできればいいと思うのだが、あいにくこれといった特技はない。
　なので、梨架としては楽しそうに絵を描いている史和を見ているしかないのだ。
　しかし、それは決して退屈なわけではない。そんな史和を見ていると、自分も楽しくなってくるのだから不思議なものだ。
　梨架は黙って二人の作業を見ていた。
　出来る事を強いて挙げるとするなら、それは男が彫った木屑を掃除する事くらいのものだ。本当になにもできないんだな……と思ってしまう瞬間でもあるが、梨架は散らかったそれを一ヶ所にまとめる。

　そんなこんなで作業を始めて一時間が過ぎようとしていた。
　しかし、二人とも休憩をとるつもりは全くないようで――というよりも、微塵も時間を感じていないようで、相変わらず一心不乱に作業を進めている。
　史和の絵は完成に近付いてきた。
　梨架の目から見れば完成しているようにしか思えないのだが、どうやらまだのようで、細かく筆を動かしている。
　額を彫っている男の方は、半分ほどが出来上がっている。
　槌を使ったり、時には手だけだったりしながら、正確な鑿捌きで、細かい箇所も的確に彫っていく。
　史和が完成間近なのにまだ半分というのは遅いように感じるが、史和が早すぎるだけで、決して遅いというわけではない。男も通常よりは早いのだ。
　絵が完全に乾いた頃になって、史和は先程まで研いでいたナイフを取り出した。
　梨架は、それをどのように使うのかと興味津々の目で史和を見ている――と、史和はナイフを絵に当てた。そして、絵の具を削り取るように動かしていく。
　それは、梨架には絵を傷付けているようにしか見えない。が、史和は的確に絵の具だけを擦り取っている。
　ほんの少し擦り取ったあと、史和は手を止め絵を眺める。
　縁が少し淋しい気もするが、そこには景色を切り取ったとしか思えないような白亜のお城が描かれていた。もちろん、今二人が滞在している街である。
「すごいです…………」
　梨架は手を口に当て感動していた。
　それを聞き、男は作業の手を休め史和の絵を見る。
「………………」
　完全に見とれてしまい、言葉が出てこない。
　スケッチブックを見た時から比類がないと感じてはいたが、いざ彩色されたものを見ると、それでもまだ史和を過小評価していたと思い知らされた。
　ある程度のものは想像していた。
　だが目の前にあるそれは、その想像を遥かに凌駕したものだった。
（これほど想像を上回るものを……）
　画廊を経営する者からすれば、これほどの絵を飾れるなど、名誉以外のなにものでもないのだが、今はそんな俗な事を考えている余裕もなかった。俗な考えなど払拭してしまうような、純粋に感動させるなにかがそこにはあった。
「とりあえず、これで額が出来上がれば完成です」
　と、史和は筆を置きながら言った。
　しかし、絵に魅入られた男にはその言葉は届いていない。
　それは梨架も同じで、彼女も先程からずっと絵を見ていた。
　史和はそんな二人を気にする様子もなく、淡々と後片付けを始めようとしたが、ふとなにかを思いついたのか、男を見る。
「すみません、ポスターカラーってありますか？」
「え、あ……」
　男はその声で現実に引き戻された。
「ポスターカラー……ですか。確かあったように思いますが……」
　と、男はあたふたとポスターカラーを探し始める。
「できれば、Ａ３サイズの紙と黒縁の額を用意していただけると有り難いのですが……」
　と、史和は遠慮がちに言う。
「なにをされるんですか？」
「ちょっと」
　と、史和は言葉を濁した。
　男は首を傾げながらも、史和が注文したものを揃えた。
　それを受け取った史和は、別のイーゼルを用意し、下敷き代わりの木の板と紙を置いた。
「ねぇ、本当になにをするんですか？」
　絵は描き上がったはずなのだ。なのにどうして？　と、梨架は疑問に思う。
「ちょっと……ね」
　そう言うと、ポスターカラーをパレットに用意し、自前の筆の中から平筆を取り出した。
　そして、今度は水張りをせずに、原色のままの青のポスターカラーを塗り始める。
　なにか考えがあるのか、史和は悪戯っ子のような笑みを浮かべながら紙全体を青くしていく。
（芸術家のする事はよくわからないな……）
　と、梨架は首を傾げながらもとりあえず見ている。
　男もその行動が気になるようだが、自分のしなければいけない事を思い出し、作業を再開する。
　史和は黙々と紙を青く塗っていく。なにか気でもふれたかのようにも見えなくはない。
　あっという間に、真っ青な紙が出来上がった。


「あの……いまさらなんですけど、お名前は…………？」
　紙を塗り終えた史和が男に訊いた。
　そう言われて初めて、梨架もこの男の名前を知らない事に気付いた。
「……ああ、そういえば名乗っておりませんでしたな……。これは失礼。頼み事をしておきながら……」
　と、どうやら男もその事を忘れていたようだ。
　もっとも、それほど重要な事ではなかったのかもしれないが。もしくは、絵に集中するあまり、そんな事を気にする余裕もなかったか。どちらにせよ、たいして不
便はなかったのだからよしとしておこう。
「わたしの名は、ウラス。ウラス・ディミストリーといいます」
「僕は史和。富所史和です。そして、こちらが一緒に旅をしている久門梨架です」
　と、紹介された梨架は、どうも、と頭を下げた。
「いやしかし、本当に失礼な事をしてしまった。絵を依頼しておきながら、名乗りもしなかったとは……。まったく、なんと言えばいいものか……」
「いいえ、僕こそ。どうやら絵に夢中になってしまうと周りが見えないらしいので……」
「わたしも同じですね」
　と、二人は談笑する。
　楽しそうではあるが、やはりその中に梨架は入っていく事ができない。とっても淋しい。
「遅い自己紹介が終わったところで、わたしは作業に戻らせていただきますよ」
「そうですね」
　と、ウラスは額に、史和はイーゼルに向かう。
　史和は早速赤いポスターカラーをパレットにおくと、迷う事なく筆を動かし始める。
　二人が話しているうちに絵は乾いていたようで、色が滲むような事もなく青い下地の真ん中に赤い線が描かれていく。
　それは〝Ｕ〟を三つ続けて書いたような模様だった。
　史和はそれを満足そうに眺める。
「なにを描くんですか？」
「完成してからのお楽しみ」
　と、梨架ににっこりと微笑む。
　その笑顔は本当に楽しそうで、梨架も嬉しくなるのだが、やはりどこか淋しい。
　そんな梨架の様子に気付く事なく、史和は今度は黄のポスターカラーをパレットにおく。そして、細い平筆を取り出した。
　しかし、先程のものが乾いていないので、すぐには塗る事ができない。
　史和は手持ち無沙汰になり、少し退屈を感じる。
　と、ふと思いだしたかのように、その前に描いていたお城の絵に向き直ると、鉛筆を取り出し、右下に〝F.Todokoro〟とサインを入れた。
「どうして鉛筆で書くんですか？」
　鉛筆で書くと跡が残ってしまうのに……と、梨架は首を傾げる。
　せっかくの絵なのに、傷を付けてしまうようなものだ。
「これは、複製されないように……とか、そんな理由があったと思うんだけど、僕にすれば習慣というか、流れで書いてしまうんだ。そうしないと、なんだか変な感じがするんだよ」
　と、史和は優しく説明する。
「そうなんですか……」
　梨架は改めてそれをしげしげと見る。
　別に変わったところのないサインではある。
　それでも、なんだか不思議なもののように感じた。

　そうこうしている間にポスターカラーも乾き、色を重ねる事ができるようになる
　史和はパレットに出しておいた黄のポスターカラーを筆につけると、流れるような動きで筆を移動させていく。
　なにを書いているのか梨架にはわからないが、どうやらそれは文字のようだという事はわかった。
　三列に分けられ、バランスよく流れるようなそれは、文字でありながら絵のようでもあった。
　史和が描けばどんなものでも絵画になってしまうのではないか、とさえ思える。
　梨架はその文字をゆっくりと目で追っていく。
　そこに書かれていた文字は、

　　GALERIO
　　　 DE
　　 ULUSU

「ウラス画廊…………？」
　その梨架の呟きを聞いて、額を彫っていたウラスが史和の絵を覗き込む。
「ガレリーオ・デ・ウラス……」
　ウラスはその文字を音にする。
「あの……これは…………」
　ウラスは史和に視線を移す。
　もちろんその言葉の意味は分かる。梨架が口にした通りだ。
　わからないのは、どういう意図でこれを描いたのかという事だ。
「よければ表に飾って下さい。やっぱり、看板というか、ポスターくらいあった方がいいかと思いまして…………」
　史和は照れ臭そうに、遠慮がちに答える。
「いえ、ただ時間が余ったので……それだけですので、遠慮せず受け取っていただけると有り難いんですけど…………」
　と、ウラスの反応がないので史和としてもどうしていいものかわかりかねる。
　いきなり予告もなしに描いたので、状況が飲み込めないだけだとは思うが、そのあまりの反応のなさに淋しさを感じる。
「ありがとうございます」
　ようやく言葉が出た。
　やはり予想もしなかった事をされると時間は止まってしまう。
「いえ、僕の勝手ですから」
　ウラスはそれを史和から受け取る。

　そんな事がありながらも、ウラスは彫り続けている。
　やはり、史和が描いたとおりに彫るのは至難の業のようで、さすがのウラスも手こずっている。
　その間に、史和は新しい紙を水張りし始める。
「すみません、お待たせして……」
　退屈にさせてしまっていると感じたウラスが声を掛ける。
「いいえ。僕が描きたいだけですから。作品は短時間で仕上げる事よりも、品質が重要だと思いますから」
　史和は嫌味ともとれる事を言う。史和は短時間で高品質のものを描いたのだ。しかし、穏やかなその言い方はそれを感じさせず、納得させるものがある。
　その言葉を受け、ウラスは今まで以上に集中して彫りを続ける。
　一方、水張りを終えた史和は、再びパレットを手にすると滑るように筆を動かす。
「今度はなにを描くんですか？」
　絵を覗き込みながら梨架が訊く。
「今度は思い浮かんだ風景を描いてみようかと思っているんです」
「思い浮かんだ風景？」
「ええ。思い浮かんだものを描いてみようかなと。脈略のないものになるとは思うんだけどね」
　もちろん、そう言っている間も筆は止まらない。
「そうですか……」
　そう言った梨架は嬉しそうに見えた。それは、史和が活き活きと絵を描いている姿がそこにあるからだろう。
　手持ち無沙汰になった梨架はウラスの様子を覗く。
　どんなものになるのか、この額によって史和の絵がどう変わるのか楽しみだ。
　そんな気持ちでひょいと覗き込む。
「………………」
　梨架は声が出なかった。
　本当に絵の額なのかと思えるものがそこにあった。
　それはもう彫刻といっても過言ではない。額という枠を超えて芸術として単体で成り立つものだった。
　その緻密さは素人目に見ても感嘆してしまう。
　これをこれだけの時間で仕上げるというのは……決してウラスの作業が遅いというわけではないようだ。そして、史和が早すぎるというわけでもなさそうだ。
　その額もそろそろ完成だろうか、ほぼ全面が彫られている。
「ああ、もうすぐ終わります。あとは仕上げとして少し調整しますが」
　梨架に気付いたウラスが説明する。
「………………」
　しかし、梨架は額に見入ってしまっており、ウラスの言葉に気が付かないでいた。


　それから一時間弱が過ぎ、ウラスの額が完成した。
　それとほぼ同時に史和の絵も描き上がった。それは、塔が建っていたり、海があ
ったり、火山があったりと全く繋がりのないものがまるで一つの世界のように描か
れていた。
「すみません、お待たせしました」
「いえいえ……」
　そう言いながら史和が彫り終わった額を見る。
　それはウラスにすれば粗を探されているようで緊張する。実際は数分だったのだ
が、彼にすれば何時間も何日も経ったと思えるほどだった。
「さすがですね。思っていたよりすごいです」
　史和はまじまじと見ながら感想を述べる。
「ありがとうございます」
　ウラスは本当に嬉しそうな顔になる。
　正直なところ、自分が彫ったものを史和が気に入らずにリテイクさせるのではな
いか、と思っていた。
　ウラスは自分の腕に自信があるわけではない。部屋にある胸像も趣味のようなも
ので、しかも史和の絵を見た後なので余計に不安になってしまっていた。
「では――」
　そう言うと、いつの間に用意したのか、史和は新しい筆を手に取り、今まで使っ
ていたパレットとは別のものに出しておいた絵の具をつけると額を彩色し始めた。
　ウラスはその様子を黙って見ている。自分が彫った額が仕上げられていく様に感
動しているようで目がキラキラとしている。
　この行動には梨架は驚いていた。まさかさらに彩色するとは思っていなかった。
　そもそも、ウラスが彫った状態でもかなりのものだ。そのままでも見劣りしない
だろう。
　しかし、史和には彼なりの考えがあって……いや、考えというよりも一度してみ
たかった事なのだ。
　額と絵で一つの作品にする事。
　それが今回、彼が目指したものである。
　ウラスという彫刻師に出会い、初めて実現できると思えた。今までは額は絵の縁
でしかなかった。それ以上のものに出会う事はできなかった。だが、今回は違うの
だ。
　史和もいつもよりもわくわくしていた。
　それ故か、無性に絵が描きたくてたまらなくなったのだ。
　無論、この彩色も楽しくて仕方ない。自然と筆が早くなる。
　そして、あっという間に塗り終わってしまった。
　塗り終わったそれは、真ん中が空洞の一枚の絵だった。
　それだけでも絵として通用するような代物だ。
　これにはウラスも言葉をのんだ。自分の作品だという事を忘れてしまうほどに。
　色を塗られてはっきりと彫られていたものが浮かび上がってきた。
　塗る前がわかりづらかったというわけではない。塗った事によってより視覚的に
なった気がする。
　額縁の両側には太い蔓が絡まって木のようになったものが彫られている。上部に
は大空を飛ぶ小鳥が二羽彫られている。二羽は仲良く会話でも楽しむように飛んで
いる。そして下部には草花が彫られていて、右の方には子犬が二匹戯れている。
　小鳥も子犬もまるで生きているかのように見せる。これは、ウラスの彫りが並外
れている事の証だろう。
　その躍動感溢れるものに色を付けられ、木に描かれた立体的な絵となった。
「すごい…………」
　ウラスは何度目となるのか忘れるほどの感嘆のため息を吐いた。
　それは梨架も同じで、その芸術に見惚れてしまっている。
　それが乾くのを待ち、ニスを塗っていく。
　塗り終わると、最後に絵に打ち付ける。
　これで完成だ。
　額に縁取られた絵を見ると、なかった時とは別物のように思える。
　ただのお城の絵だったそれが、今は森の出口から見える夢の世界に見える。
「すごいですね…………まるで物語の中にいるみたいです」
　梨架がそんな感想を述べる。
「確かにそんな感じですね」
　ウラスがそれに同意する。
「ありがとうございます。でも、これが完成できたのは、ウラスさんの額があった
お蔭ですから。これがないと未完成作ですよ」
「いえいえ、わたしなど……」
　ウラスはどこまでも謙遜する。それは謙遜というよりも、自分を過小評価してい
るだけなのだが。

「では、早速飾らせていただきます。それと、これはお約束のものです」
　ひとしきり絵を堪能し終わり、絵を飾る準備も終えると、ウラスは紙に包まれた
ものを差し出す。
「約束のもの……？」
　史和はわけもわからず受け取り、中を見る。
「…………っ」
　それは数枚のお札だった。三十枚はあるだろうか、パッと見ただけではわからな
いが、そのくらいはあるだろう。しかもそれが全て一〇〇〇〇ステーロ札なのだ。
つまり、三〇〇〇〇〇ステーロという事になる。
　確かに仕事として引き受けたのだから謝礼はあってもいいと思うし、あった方が
助かる事も事実。だが、これはあまりにも多い金額だ。
　しかも、この絵は史和が一人で完成させたものではない。ウラスの協力があった
からこそ完成できたものなのだ。いってしまえば、これは共作という事になる。
　なのに、この金額というのは……。
「ウラスさん、これは多すぎませんか。この絵はウラスさんも一緒に……」
「それは正当な謝礼です。これほどの絵にその額は少ないほどですよ。その倍くら
いが妥当な金額でしょう。わたしにもう少し財があれば支払うのですが、少なくて
申し訳ないくらいですよ」
　史和の言葉を遮ってウラスは言い切る。
　梨架にすれば絵というものの金額はよくわからないが、三〇〇〇〇〇ステーロが
途方もない金額だという事はわかる。なにせ、日本円にすればおおよそ七五〇〇〇
〇〇円だ。日本円に換算したその金額を梨架は今まで見た事がない。それだけでな
く、この世界の物価で考えても、常識を逸脱したものにしか思えない。
「さて、少しでも早くこの絵を見てもらいたい。さあ、久しぶりに画廊を開けまし
ょうか」
　と、ウラスはその空気を払拭するように明るく言い、扉を開けに下に降りていっ
た。
「富所さん…………」
　梨架は史和に話し掛ける。
「あ、ああ。なんですか？」
「いえ……それ…………」
　梨架の視線の先にあるのは、途方もない金額である。
「ああ、そうですね。僕ももらいすぎだと思うんです」
「そうですよね……」
　しかし、これをウラスに返すというのは失礼になる。返すに返せない。
　二人で相談した結果、結局それを受け取る事にした。
　それは、降りていって自分の絵につけられた値を見た事も影響したのかもしれな
い。
　史和の絵につけられた値段は、五〇〇〇〇〇ステーロだった。
　庶民が買えるような値段とは思えないので売れるかどうかは別として、ウラスも
商売を忘れたわけではないようだった。
　もっとも、それは誰も買わないようにあえてその値にしたのかもしれないのだが
。
　ただ、やはりその値が妥当なのかどうかは二人には判断できなかった。

　史和の絵は瞬く間に国中に知れ渡り、ウラスの画廊には毎日大勢の人が訪れるよ
うになった。もちろん、史和の絵を買おうとするものはいなかったが、誰もがそれ
を絶賛していく。
　急ぐ旅でもない史和たちはしばらくウラスの画廊に滞在させてもらっており、そ
の様子を毎日直接見聞きしていた。
　彼としては嬉しくもあるのだが、やはり照れ臭いものがある。それだけでなく、
この絵はウラスとの共作なので、自分だけが讃えられているのが納得できないとい
う事もあるのだが。
　その噂はついにお城まで届く事になった。

―時計の城―



　通りがざわめいていた。
　普段の喧噪とは全く別物だ。
　その異様な賑わいにウラスは表に姿を現し……そして、言葉を失った。通りを埋め尽くす王城警備兵。
　その中心にある豪奢な馬車。
　それらが示すもの――――王様がいる！
　ウラスは慌てて奥に引っ込むと、史和と梨架がいる部屋に駆け込む。
「た、た、た、た……大変です！　大変です！」
　ウラスの慌てようから尋常ではない事はわかるのだが、二人にはそれがいまひとつ理解できない。
「どうしたんですか？」
「大変なんです！」
　史和の質問に答えることもままならない。
「ですから、どうしたんですか？」
　もう一度訊く。
「大変なんです！」
　しかし、ウラスはそれに答える余裕を失っている。
　何度質問しても返ってくる言葉は同じだった。
　そんなウラスが落ち着いたのは十分は経った頃だった。
　しかし、その直後に扉をノックする音がした。
　そして――
「ウラス画廊のウラスはおるか」
　と、高圧的な声が聞こえた。
　その言葉を聞いてウラスはビクンと硬直する。
「どうしたんですか？　呼ばれていますが」
　状況が理解できない梨架が言う。
　それは史和も同じで、どうしてウラスがこうなってしまったのかわからない。
「おらんのか！」
　怒声に近い声がする。
「は、はい！　今すぐ！」
　ウラスは緊張しきった声でなんとか返す。が、震えたその声が表にまで届いたかは疑問だ。
　だが、催促の声がしないのでおそらく届いたのだろう。
「お二人はここにいてください」
　ウラスは顔面蒼白で、ふらふらとおぼつかない足取りで表に歩いていく。
「大丈夫でしょうか……？」
「どうだろう……？」
　梨架と史和は心配そうな面持ちでウラスを見送った。

　ウラスは緊張のしすぎで心臓が止まってしまうのではないかと思いながらドアを開けた。
「………………」
　もしそこに王様が立っていたら本当に心臓が止まっていたかもしれない。だが幸いな事に、そこに立っていたのは宰相だった。もっとも、宰相だからといって緊張が解れるわけではないのだが。
「お前がウラスか」
　高圧的な態度で訊いてくる。
　確かにウラスよりは地位は高い。庶民と宰相なのだ、比べるまでもない。
　しかし、年齢はウラスとさほど変わらないように思える。むしろ、宰相の方が少し若いのではないだろうか。
「は、はい……」
　ウラスは緊張したまま答える。
「そうか」
　宰相はウラスを舐めるように見る。それはまるで品定めをしているかのようだ。
「この画廊にたいそう素晴らしい絵があるという噂だが、それはまことか」
　言葉ではそう言うが、どうにも見下した感がある。
「は、はい…………」
　ウラスの声は既に涸れてしまっている。ノドが渇いて上手く声が出せない。
「ほう…………」
　宰相は頷くと、では見せてもらおう、とウラスを押しのけるようにして中に入っていく。
　と、中に入ってすぐその足は止まった。それというのも、噂になっている絵――
つまりは史和の絵なのだが、それは入口を入ってすぐに飾られているのだ。
「………………」
　その絵を見た途端、さすがの宰相も言葉を失う。
「…………なるほど、これは素晴らしい」
　さしもの宰相も素直な感想を述べる。
「噂に違わぬ出来であるな。…………して、これを描いたのはお前か？」
　宰相はウラスを睨め付ける。もちろん、そんなつもりはないのだろうが、ただでさえ宰相の視線は強いので、余計にそう感じてしまう。
「い、いえ……この絵を描いたのはわたしではありません」
　ウラスは震えながらもなんとかそう言った。
「では、誰なのだ。その者はどこにいる」
　宰相は続けざまに質問をあびせかける。ウラスとしては、まるで取り調べられているようさえ思える。まさに尋問だ。
「その絵を描いたのは僕です」
　騒ぎが気になった史和がちょうど出てきた。
「お前か」
　宰相は今度は史和を舐めるように見る。
「まあいいだろう。王様がお待ちだ。すぐに出立する」
　宰相は有無を言わさず史和の腕を引き、馬車へと押し込める。
「待って下さい」
　史和が連れ去られる様子を見て、慌てて梨架が飛び出す。
「何者だお前は」
　宰相の声と同時に、警備兵によって梨架は動きを封じられる。
「彼女を放せ！」
　普段は感情を露わにしない史和が、珍しく――いや、初めて強い感情を出した。
「彼女を放せ！　彼女は僕のパートナーだ！　彼女を傷付ける事は僕が赦さない！」
　史和は我を忘れて、周囲を気にする事なく叫ぶ。
「ふん、まあいいだろう」
　宰相がそう言うと、警備兵たちは梨架の拘束を解いた。
　梨架は涙を浮かべながら史和の元に駆け寄る。
「…………と、富所さん…………」
　梨架は史和の胸に飛び込むと、ぐすっぐすっと鼻をすすりながら泣きじゃくる。
「大丈夫……大丈夫だから…………」
　史和は優しく梨架を抱きしめる。
　その様子にその場にいた者たちの大部分が感銘を受けたが、宰相だけは冷ややかな目で見ていた。くだらん、と呟きながら。

　結局、梨架も一緒に馬車に乗り込み、説明される事なくお城に連れて行かれる。
　ちなみに、出発の前に宰相は史和の絵を購入した。
　まさか購入されるとは正直思っていなかったウラスがわずかに渋ったが、表示額の倍額を出され、半ば強制的に持っていかれた。傍若無人とも思える行動だが、誰もそれに逆らえる者はいなかった。
　わけもわからないまま連れてこられた史和と梨架だが、彼らとしてはお城に行ってみたいという気持ちもあったのでその点に関しては悪い気はしない。が、そのやり方には納得できないものがある。
　とにかく抵抗する事はできそうになかった。
　さっきは勢いがあったからいいものの、今となっては警備兵に囲まれたこの状況でどうする事もできなかった。
　窓の外を見ると、お城が近くに迫ってきている。お城にある大きな時計もよく見える。
　ずっと動いていない時計。別に故障というわけではない。過去に何人もの工芸師や細工師などが修理を試みたが、故障個所がないのでどうしようもなく、かといって適当な事をすれば首が飛びかねないので匙を投げるしかなかった。
　その時計が――

　――ボーン！　ボーン！　ボーン！　…………！

　と、大きな音を鳴らしたのだ。
　どういう事だ、と宰相でさえも動揺を隠せない。誰もが困惑している。
「どういう事だ…………」
　と、宰相は時計にばかり気をとられていたが、もっと信じられない事が彼のすぐ
側で起こっていたのだが、あまりにも時計の印象が強いために気付かない。
　そう――その馬車には宰相と警備兵しか乗っていないという事に、二人分の空席ができているという事に、誰も気付いていなかった。
　その事に気付くには、まだしばらくの時間を要する。

　消えてしまった史和と梨架がどうなったのか――
　二人はなにもない空間にいた。
　周囲にはなにもなく、地面すらもない。
　そんな場所に二人は浮いていた。
　足元になにも感じないのは不安でたまらないのだが、どうしようもない。
　周囲にはなにも見えない。が、決して真っ暗というわけではない。
　事実、隣にいる相手の姿はハッキリと見えているし、なにもないだけで周囲の様子もわかる。
「どうなってるんだ……？」
「私たち、さっきまで馬車に乗っていましたよね……」
　わけもわからず馬車に乗せられたかと思えば今度はわけのわからない空間だ。
　不運としか言いようがないだろう。
「よく来てくれました」
　なにもない空間から声が聞こえた。
　それはどことなく可愛らしい少年のような声だった。
「誰だ？」
　史和は周囲を見回しながら言う。
　相手の姿が見えない上に声も全体から聞こえてきて方向が定まらない。
「申しわけありません」
　そんな声がしたかと思うと、二人の前の空間がぼんやりと明るくなり、そこに小さなヒトガタが浮かび上がった。
「ぼくは時計の番人をしています、ホーローヂョといいます」
　ホーローヂョと名乗ったヒトガタは、ぺこりと頭を下げた。なかなかに礼儀正しいようだ。
　慌てて二人もお辞儀をする。
「本当に嬉しいです。やっと時計を動かしてくれる人が現れました」
　ホーローヂョはニッコリと笑いながら涙を浮かべている。
「どういう事なのかわからないのですが……」
　梨架が遠慮がちに訊く。
　それは史和も同じだ。さっぱり理解できていない。
　ただ、ホーローヂョだけが嬉し泣きしているのだ。
「そうですね、説明をしなければいけませんね」
　そう前置きして、
「ぼくは時計――時間を見守っているのです。同族には世界の記録を管理している者や情報の流れを見守っている者がいたりします」
　そう言われて、史和と梨架はプーポを連想した。おそらくプーポもこのホーローヂョと同族なのだろう。
「ぼくは時間を守っていなければいけなかったのですが、時空の力の不足から時計を動かすだけの力がなくなってしまったのです。それで、この時計はずっと止まっ
たままに……。ですが、今お二人が来られた事により、少しだけ動かす事ができるようになりました」
　この空間に来る前に鐘の音のようなものを聞いたような記憶があるが、おそらくそれが時計の音だったのだと二人は思った。
「そこでお願いがあるのです」
　ホーローヂョは真剣な顔で二人を見る。
「お二人の力を分けて欲しいのです」
　そう言われて二人は顔を見合わせた。
「いや、助けてやりたいとは思うんだが、別に僕たちはそんなすごい人間じゃない」
「ええ。……私たちは色々な世界を旅しているだけで……」
「それなのです」
　ホーローヂョの表情が明るくなる。
「必要なのは様々な世界を行き来する力。…………あ、別にあなたたちに犠牲になってもらうとかそういう事ではありません」
　優しい顔と声でサラリとすごい事を言う。
「お二人はただ世界を旅していただくだけでいいのです。十二の世界を旅してもらえれば、ぼくの力も補充され、再び時計は時を刻み始めます」
　二人は顔を見合わせる。
　が、既に答えは出ていた。その答えは二人とも一緒で――
「わかった」
「わかりました」
　というものだった。
　様々な世界を旅する。それは今までとなんら変わりのないものである。
　元々アテも目的もない旅だ。それに目的ができただけだ。
「ありがとうございます」
　ホーローヂョは感謝の涙を流す。
「感謝されるような事じゃないよ」
「そうですよ。私たちは旅をするだけ。それはホーローヂョさんのためというだけでなく、私たちも楽しみたいからですから」
「それでも嬉しいです。ありがとうございます」
　梨架に言葉を掛けられ、ホーローヂョはさらに感激の涙を流す。
「本当にありがとうございます」
　ホーローヂョは何度も頭を下げる。
「とにかく世界を回るんだね」
　史和が確認するように訊く。
「はい。十二の世界を回り終えた時、再びここに戻ってきます。そうして、先程までいた世界へ戻る事ができます」
「ウラスさんになにもお礼を言ってませんし……」
「そうだな。お城へ行くチャンスも逃してしまっているし」
　二人は一歩を踏み出す。
「行こう」
「行きましょう」
　こうして、二人は様々な世界を巡る旅に出発する事になった――

―繰り返す街―



「さて、今回ももうすぐ終わりだな」
「そうだな」
　街の入口にある小屋で二人の男が会話をしていた。
　二人とも時間が気になるのか、時計をじっと見ている。
「それにしても、ここまで長かったが、振り返ればあっという間だよな」
「それはまだ早いだろ。なにせ、まだ百回以上あるんだぞ」
　苦笑を漏らす。
「そうだっけか。…………いや、そうだな」
「そうだぞ。まだ八二六回だからな」
「次で八二七回か……」
「そういう事だ」
「長いな…………」
「まあな」
　そう言って二人は大きなため息を吐いた。
「あの時、俺たちがこの街にいなかったのは幸運だったのか、不幸だったのか…………」
「わからない。だが、結局オレたちも歯車の一つさ。だが、オレたち四人はこうして外れる事もできる分、幸せなのかな……」
「それとも、その分だけ御利益がなかったりしてな」
「あり得る……」
　と、楽しそうな声が小屋に響く。


　史和と梨架はぬかるみの中を歩いていた。
　雨が降ったあとなのか、地面がぬかるんでいて歩きにくい。
　周囲が木に囲まれて陽が射し込まないので余計だ。
　薄暗くてじめじめとした道をひたすら歩く。
「これはどうにかならないものだろうか……」
　さしもの史和も、今回ばかりは周りの景色を見る余裕はない。靴にこびりつくかのような泥を振り落としながら歩くが、次の一歩でまだ泥まみれになってしまうので全く意味がない。かといってそのままにしておくと、際限なく泥が付着し、靴が重くてしょうがない。地面に靴を盗まれそうだ。
「そうですね…………」
　梨架も、そのぬかるみを苦戦しながら史和に続く。
　できるだけ史和が歩いた場所を歩こうとしているのだが、轍の意味を成していない。結局ぬかるんでおり、まるで浅い沼を歩いているようだ。
　下手をすれば本当に地面に飲み込まれそうな気にすらなる。
　靴どころではなく、身体も全て地面に盗まれそうになる。
「それにしても、どうしてこうなるんだろうな」
「仕方ないですよ。出た場所がここだったんですから」
「それを言ってはお終いだと思うのですが……」
「そうですね」
　梨架は小さく笑う。つられて史和も笑みをこぼす。
　そもそも、二人は好きこのんでこの場所にいるわけではない。
　アテのない旅をしていた二人が、ある街で不思議な時計に飲み込まれ、様々な世界を旅するように言われたのだ。
　目的もなかったので特に考えずに首肯した事を少し後悔していた。
　まさかこういう場所に出るとは思っていなかった。
　しかし、結局は後の祭りであり、後悔先に立たずなのだ。
　今しなければならない事は、一刻も早くここを抜け出す事だ。
　もっとも、こんなぬかるみがどこまで続くのかはわからないのだが。


「おっ、旅人のお帰りだぞ」
　窓から二人の男が入口の小屋に歩いてくる姿が見える。その姿は黒かった。というのも、修道服のようなものを身につけているのだ。そのせいで影が歩いてくるようにも見える。
「さて、次はオレたちか。準備しないとな」
「そうだな。喜んでいる場合でもないんだよな」
「そういう事」
　そう言うと、二人はこちらに向かってくる二人と同じように修道服に着替え始める。
　まだ少しだけ時間があるが、余裕があるに越したことはない。
「お疲れ」
　そう言って二人を迎え入れる。
「ああ。これで八二六回終わりだ」
「お前らも頑張ってくれよ」
　帰ってきた早々、二人は小屋にいた二人に言う。
「わかってるよ。この街を救うためだしな」
「故郷を見捨てるほど…………」
「おっと、口より手を動かせ」
　帰ってきた一人が着替え中の男の言葉を遮る。
「そうだぜ。遅れちゃ元も子もない。今までの苦労が水の泡だ」
「そうでした」
　そう言われて慌てて着替えを続ける。


「やっとですね……」
　前を歩く史和は、ようやく光を見つけて安堵した。
　もしかしたら今日はこんな場所で夜を過ごさなければならないのではないかと心配していたのだ。
　野宿が嫌というわけではないのだが、こんなぬかるみの上で過ごすのは勘弁してもらいたい。
「本当ですね」
　史和の背中越しに梨架も出口を見る。
　先が見えないと足取りは重いのだが、こうして終わりがわかると途端に早くなってしまうもので、二人も例外ではなく、今までの倍の速さで歩き出す。泥がどうとか考えるよりも先に、一刻も早くこの場を抜け出したいという気持ちでいっぱいだった。
　それが功を奏したのか、出口まではあっという間だった。
「やっとちゃんとした場所に出た…………」
　その安心の余り、史和はその場に座り込みそうになった。が、すぐに自分が泥まみれである事を思い出す。
「素敵な街ですね……」
　梨架はその先にある街に見とれていた。
　それほど大きな街でもないし、綺麗というよりも山の中にあるだけという気がしなくもないが、さっきまでの場所を考えるとそこは天国のようにも見えた。
「とにかく、この街で休もうか」
「そうですね」
　ぬかるみを歩くというのは思う以上に体力を消耗する。もうヘトヘトだ。ゆっくりと眠りたい。
　二人は入口と思しき場所にある小屋に歩いていく。
　と、中から二人の男が出てきた。
　その男たちが黒ずくめだったので、二人は思わず悲鳴を上げそうになる。が、よく見ればそれは教会などで見るような服装だった。
　とりあえず、その二人に駆け寄っていく。
「あの…………すみません」
　史和が遠慮がちに言うと、声を掛けられた二人は跳び上がるように驚いた。
「な、なんですか……」
　一人が恐る恐る振り向く。
「僕たち、旅をしているのですが、今日はこの街で休ませてもらいたいんです……」
　と、そこまで言ったト時、二人の修道服の男たちの表情が明るくなった。
「やった。久しぶりに本物だ！」
「そうだな。みんなも新鮮でいいかもしれない」
　二人は嬉々とした表情で、二人を小屋に招き入れる。
「ささ、時間がないので急いで下さい」
　そう言うと、彼らが着ていたものと同じ修道服を二人に押しつける。
「さあ、これを来てください。時間がありません」
　突然の来客に驚いたのは、中にいた二人だった。
「どうしたんだ？」
「久しぶりの本物だ」
「……おっ！」
　と、中にいた二人も喜ぶ。
「さあ、本当に急いで下さい」
　と、半ば無理矢理に着せられ、小屋を追い出された。
「そうそう……」
　と、一人の男が一枚の紙を梨架に握らせる。
「その通りにお願いしますね」
　それだけ言って、
「では、楽しい二日間を過ごして下さい」
　そう言ってブンブンと手を振る。
「どうなってるんだ？」
「さあ？」
　二人は状況が飲み込めないまま、男たちに見送られて街へ入った。


　街へ入るが、入り口付近には誰もいない。
　それは別にどうでもよく、気になるのは渡された紙である。
「これは……なんでしょう」
　梨架は手にある紙をじっと見る。
「なんでしょうね……」
　史和も首を傾げる。
「その紙もそうですが、どうしてあの人たちはあんなに慌てて僕たちを中に入れたんでしょうか」
「そうですね。なんでしょう」
　二人して首を傾げていると、老人が一人歩いてきた。
「おやおや、旅のお方ですかな？」
　どう見ても街の人だ。
「あの……これなんですけど…………」
　疑問を解決しようと紙を梨架から受け取り差し出す。が、
「宿をお探しですか……よろしければ案内しましょう」
　そう言うと、老人は来た道を戻り始める。
「さあ、こっちですじゃ」
　そう言うと、老人はゆっくりとした足取りで歩いていく。
「あ、あの…………」
　か細い声で史和が言うが、老人は聞こえていないのか聞いていないのかわからないが、そのまま歩いていく。
「………………」
　差し出してある手がなんとも淋しい。
「…………どうしましょう？」
　梨架が史和に訊く。
「…………ついていくしか……ないのか？」
　二人はしばらく考えていたが、このままでは老人の姿を見失ってしまいそうだったので、とりあえずついていく事にした。
　それしか選択肢がないように思えた。

　老人は迷う事なく――もっとも、街の人なので迷うはずもないのだが――後ろを振り返りもせずに歩き続ける。
　それとは対称的に、史和と梨架はキョロキョロと周囲を見回しながらついていっていた。
　初めて訪れる街というのはやはり新鮮で、当たり前のものでも目新しく感じる。
　老人は決まり事のように、道行く人たちに挨拶をしながらゆっくりと歩いている。街の人もきちんと挨拶を返している。
　しかし、史和と梨架が挨拶をしてもなにもせず、まるでなにも見えていないかのように振る舞っている。
　どうなっているんだろう？　と思っていると、十歳くらいの子どもが駆け寄ってきて、
「いらっしゃい。おじさんたちは教会の人？」
　と、言ってきた。
（おじさん……？）
　史和は少し顔をしかめる。
　確かに彼から見ればおじさんになるのかもしれないが、史和はまだ二十歳である。外見も別に老けているわけではない。年相応の雰囲気だ。
　教会の人というのは、おそらく着ている服のせいだろう。これとてここに入る時に無理矢理着せられたもので、二人は巡礼者でもなければ修道士でもない。
　それでもやはり服装のせいだろうか、手を合わせてくる人も少なからずいる。
　しかし、それがただ手を合わせているだけではないように感じる。頼み込んでいるような……不思議な真摯さが伝わってくる。
　まるで老人の先導で行進をしているかのようだ。
　そんな不思議な気持ちのまま、他にどうする事もできずに歩き続けていると目的地に到着したらしい。特に変わったところのない建物だ。旅館とわかるようなものもない。隣近所も同じ様な建物が並んでおり、絶対に迷ってしまうだろう、と史和は思う。
　老人が振り返り、
「ここが街で唯一の旅館でございます。どうか、旅の疲れをゆっくりとお流し下さい」
　そう言うと、懇切丁寧に旅館のドアを開けてくれる。
　中も特に変わり映えしない。入ってすぐ左にカウンターがあり、そこに一人の女性が座っている。
　正面には階段があるだけで他にはなにもない。
「いらっしゃいませ」
　女性が声を掛けると、
「街の入口で偶然出会ってのぅ。どうやら旅のお方のようじゃったもんに、せっかくですからとここに連れてきたんじゃわい」
　と、老人が女性に話す。
「そうですか。旅をなさって来たんですか……。それは大変でございましたでしょう。どうぞゆっくりと休んでいって下さい」
　そう言うと、女性は背後の壁に掛けてあった鍵の束を手に取り、カウンターから出てきた。
「ではお部屋へご案内します」
　と、二人はされるがままになっていた。

　案内された部屋にはベッドが二つとテーブルと椅子が二脚あるというだけの質素なものだった。
　豪華なものがあまり好きではない二人にとっては充分ではある。
　史和はとりあえずベッドに腰を下ろす。思ったほどマットレスは硬くなく、適度な柔らかさがあるようだ。ちょうどいいくらいに沈み込む。
「疲れましたね…………」
　状況がわからないために無意識に常に緊張していたのか、部屋に入るなり眠ってしまいそうになっていた。
「そうですね。いったいこの街はなんなのでしょう？」
　梨架も隣のベッドに腰を下ろす。
　街へ入るなり、街の人々の反応は不思議なものだった。
　なにを言っても、決められた台詞があるかのように返答してくる。
　お蔭で疑問は増えていくばかりで減る気配はない。
　街へ来る前のぬかるみでも体力をかなり消耗していたので、このまま眠ってしまいたいほど疲れている。
「そういえば…………」
　史和が横になり目を閉じようとした時、思い出したように梨架が言った。
「どうしたんです？」
　史和は起きあがり梨架の方を向いて座った。
「あの……。あの時渡された紙は…………」
　言われて思い出した。
「そうでしたね。なにが書いてあるんでしょう……」
　史和は入口で渡された紙を広げる。
「「………………」」
　二人して言葉を失う。
　そこに書かれていたのはタイムテーブルだろうか。いつ、なにをするというものが書かれていた。
「なんでしょうか、これ…………」
「さあ？」
　梨架が訊くが、史和にわかるはずもない。
　おおまかではあるが、きちんとスケジュールが書き込まれている。まるで修学旅行のしおりのようだ。
　二人はとりあえず一通り目をとおす事にした。
　なにが書かれているのかという好奇心が大きかったのだが。
　読み始めてすぐにわかったのだが、どうも規則正しい生活になっているようだ。
　就寝時間が二十一時となっているあたりは、まるで修道士のよう…………と、そこまで思って、
「まさか、これは…………そのため？」
　と、ようやく自分たちの立場を悟る。
　そのための服装なのか？
　しかし……とも思う。
　なんのために修道士にされたのか。
　自分たちが着る前は、入口の小屋にいた人がこれを着ていた。が、どう贔屓目に見ても彼らも修道士には見えなかった。
　そんな事を考えながら先を読み進める。
　と、こんな記述が目に飛び込んできた。

〝１３：００　礼拝〟

　これはまるで自分たちが修道士ではないか。
　考えるのはあとにし、とりあえず先を読む。
　……が、それ以外は特に驚くような記述はなかった。
　他には散歩と書かれているだけで、行動を制限されているわけではないようだ。
　ただ、スケジュールはもう一日続いていた。書かれている事は翌日のものと同じだった。ただ最後が街を出るという事になっているくらいだ。
　どうやら、これを見る限り、二人はこの街に二泊しなければならないらしい。
「なんだ、これ……」
　そう言って史和が紙をたたもうとすると、
「ちょっと待って下さい」
　梨架がそれを止める。
「まだなにか書いてありますよ」
　思わず見落としそうになったが、確かに殴り書きがされている。
　よほど急いでいたのか、本当に乱筆なのか、お世辞にも綺麗な字とは言えない。
　そこにはどうにか読める文字で、

〝申しわけありませんが、この通りに過ごして下さい。理由は街を出る時にゆっくり説明しますので〟

　そんな事が書かれていた。
　やはりこれは二人の行動表だったらしい。
　それにしても、なんとも納得できない。
　街を出る時に説明されても仕方ない。どうせなら今すぐ説明して欲しい。
　史和は立ち上がり今から入口に戻ろうとしたのだが、すぐに道がわからない事に気付き再びベッドに腰を下ろす。
「なんだかわからないけど、どうやらこの通りにしなければいけないようですね」
「そうみたいですね……」
　そう言った梨架も納得はしていないのか、困惑した顔をしている。
　しかしすぐに、もう一度紙に目を落とす。どうやらもう一度読み返しているらしい。
「仕方ないか」
　史和も呟くともう一度読み返す事にした。
　どうやらこの通りに過ごさなければいけないようだ。もっとも、納得はしていないので釈然としないものはあるのだが。
　まるで観劇に来たらいきなり役を与えられてしまったみたいだな……と、文字を追いながら考えていた。


　十八時三十分――
　時間ピッタリに扉がノックされた。
「お食事の用意が出来ましたので、食堂へいらして下さい」
　扉の向こうから声がする。
「わかりました」
　史和は扉越しに返事をする。
「さて――」
　そう言いながら立ち上がり、
「――行こうか」
　梨架を見て微笑む。
「そうですね」
　梨架もなんとなく嬉しくなる。正直、空腹だったので嬉しいというのが大きいのだろうか。もちろんそれだけでなく、史和と一緒という事もあるのだろうが。
　二人は修道着のまま――その方がいいだろうというのは史和の案だ――廊下に出る。
　途端にいい匂いが二人の元に届く。
「いい匂いだな……」
　史和の頬が弛む。
　梨架は、そうですね、と答えようとしたが、その前に、くぅ～、と可愛い音を鳴らした。
「ふっ…………」
　史和は思わず笑ってしまいそうになる。
　梨架は真っ赤になって俯く。
「……………………ご、ごめん。つい…………」
　史和はなんとか笑いを堪える。
「……いえ……いいんです」
　と、梨架はなんとか言葉を紡ぐ。
　――グゥ～。
　今度は史和が。
「「………………」」
　また黙ってしまう。
　が、
「ふはははっ…………」
　史和は笑いが止まらない。
「いや……やっぱり、僕のお腹は正直なようですね。さぁ、早く行きましょう」
　梨架に手を差し出す。
「はい」

　食堂に向かうと、大きなテーブルに大勢の人がついていた。ゆうに三十人はいるだろう。部屋いっぱいの大きなテーブルというのも初めて見たのだが、この街には――この宿にはこれほどの人がいたのかと思ってしまった。
　よく考えれば街の人が来ている事くらいすぐにわかったのに。
　テーブルの上にはたくさんの果物とパン。そしてそれぞれの前にはスープ皿が置かれていた。
「旅の修道士様がいらっしゃいましたよ」
　一人が言うと、みんなの視線が一瞬にして二人に向けられる。
「どうぞ、こちらのお席に」
　恰幅のいい女性に案内され二人は席に着いた。当たり前のように上座だった。
　戸惑いながらも、目の前の食事の誘惑には勝てない。
　理由はわからないが、ここは周囲に流されたままでいる方がいいように思われる。
「ありがとうございます」
　梨架は柔和な笑みでお礼を言う。
　女性は礼をして奥に歩いていく。
　そして、大きな鍋をカートに乗せて戻ってきた。
　一礼をしてから、それぞれの皿にスープを入れて回る。
　全員のスープが行き渡ると、女性も自分の席に着く。
「それでは修道士様、是非とも食事の前のお祈りをお願いします」
　史和の左手側に座っていた男に言われる。
（お、お祈り……？）
　予想していなかった自分が悪い。修道士であり食事となればなにかあると思っておくべきだった。なにしろ、行動表には〝礼拝〟もあったのだから。
（どうしたものか……）
　史和が戸惑っていると、
「全ての生きとし生ける者たちよ、我々はあなたがたの命を引き継ぎ、明日への糧として生かされています。その事への感謝を忘れる事なく、常に感謝の気持ちで生きていくと誓います。全ての生命に幸あれ」
　戸惑う史和を後目に、梨架がすらすらと言葉を紡いでいく。
　それはまさに本物のように思えたほどだ。
　街の人たちも梨架の行動に少なからず驚いている。
「それではいただきましょう」
　梨架は神妙な顔で言った。
　街の人たちは梨架の顔を見て固まってしまっている。それは史和も同じで動けない。
「冷めないうちにいただきましょう」
　そう言って梨架が一口スープを飲んで初めて動く事ができた。
「さ、さあ。我々もいただくとしよう」
　男の声をきっかけにみんなも食事を始める。
　しかし、史和はまだ固まったままだった。
「早く食べないと冷めてしまいますよ」
　梨架は何事もなかったように言う。
「あの……」
　訊きたい事があるのだが、上手く言葉が出てこない。
「早く食べないと、私が食べてしまいますよ」
　と、いつもの笑顔で言われ、ようやく史和はスープを口に運ぶ。
　そのまま、ありきたりな会話だけで、恙なく食事を終えて二人は自室へと戻っていった。
「はぁ…………」
　部屋に戻ると史和は大きなため息を吐いてベッドに寝ころぶ。
　史和にしてみれば緊張のしっぱなしだった。
　大勢で食事を摂る事に慣れていない事もあるし、さらには自分は修道士を演じなければならないという事があり、気を弛める事ができなかった。
　それに引き替え、梨架は淡々と過ごしていた。
「大丈夫ですか？」
　そんな史和を見て梨架が優しく声を掛ける。
「大丈夫……だと思います」
「疲れているみたいですね」
　梨架は意地悪そうに笑う。
「確かにそうかも。僕、あんな食事に慣れていないから……」
「あんな？」
「うん、大勢でっていうのがちょっと……。それにお祈りも」
　史和はお祈りのポーズをして言う。
「お祈り……ですか？　そういえばそうですね。私にしてみれば普通だったんです」
　そう言いながら梨架の表情が曇っていく。
「私の両親はそういう信仰があって、私にしてみれば日常でしたから……。でも……だからこそ、私がこんなですから…………」
　と、そこまで聞いた時、梨架の表情の理由がわかった。
「ごめん。なんだか嫌な事を思い出させてしまったみたいで……その…………」
　史和はどう取り繕っていいのかわからず、ただ慌てるしかできない。
「いえ、いいんです。今は楽しいですから」
　無理しているのがわかってしまう。そんな笑顔は見ているだけで辛い。
「久門さん…………」
　そう言うと、史和は優しく梨架を抱きしめる。
「僕は今、なにも聞こえないし見えない」
　そう言って、少しだけ力を込める。
「ありがとうございます……」
　梨架は史和の胸に顔を埋める。
「…………っ…………っ……」
　声を殺しているのだろう。それでも時折、小さく聞こえる。
（ごめん……）
　史和は心の中で謝る。
　そんな二人の空気を壊したのはノックの音だった。
「お湯の用意が出来ました。どうぞお入りになって下さい」
　どうやら二十時三十分になっていたようだ。行動表では〝入浴〟となっていた。
「久門さん……顔を洗いに行きましょうか」
「…………はい」
　梨架はゆっくりと顔を上げる。が、恥ずかしいのか、史和の顔をまっすぐ見る事ができない。
「僕は先に行ってますから……」
　と、部屋を出ようとしたところを、
「待って下さい」
　梨架が呼び止めた。
「一緒に……行きましょう」
　梨架は俯いたままか細い声で言った。
「わかりました」
　史和は意識して梨架を見ないようにし、浴場へと歩いていった。
　もちろん浴場は男女別で、それぞれゆっくりとお湯に浸かって、決められた時間に床に就いた。
　こうして、この街での初日は終わった。


　二日目の朝、二人は決められた時間よりも早く目が覚めてしまった。早く寝たという事もあるが、なによりも緊張しているという事があったからだろう。
　かといって熟睡できなかったかといえばそうでもない。疲れのお蔭か熟睡はできた。
　八時間眠ったのだから充分といえよう。
　そういったわけで、今は六時である。指定された時間まで三十分ある。
「おはようございます」
　隣のベッドで眠っていた梨架が横になったまま挨拶をする。
「おはよう」
　史和は欠伸まじりで挨拶を返す。
　最近はこんな時間に起きた事がなかったので妙に新鮮だ。
　史和はゆっくりと体を起こして身体を伸ばしながら時計を見る。
「まだこんな時間なんですか……。この時間に起きるのって滅多にないから変な感じです」
「そうですね。私もです」
　そう言いながら梨架も体を起こす。
　いつもはこの一時間後くらいに起きているのだが、一時間違うと全然違うように感じる。
「よく眠れましたか？」
　梨架が訊く。
「ええ。久門さんは……？」
「はい。私もゆっくり休めました」
　こうして朝を迎える事は初めてではないのに、妙に気恥ずかしくなってくる。
　それを誤魔化すように史和は窓に歩み寄った。
　カーテンが掛かっているからなのか、光が射し込まないので朝になっているという実感がない。この地域は陽が昇るのが遅いのかもしれないな……などと考えながらカーテンを開ける。
「………………」
　なるほど、陽が射し込まないわけだ。雨が降っている。それもしとしとという感じではなく、どしゃ降りといっていいほどだ。
「雨…………ですか……」
　梨架も窓の外に目をやる。
「そのようですね…………」
　と言ってから、史和はスケジュールを思い出した。
　慌ててテーブルの上に置いてある紙を取る。
「どうしたんですか？」
　梨架が不思議そうに訊く。
「いや、確か今日の予定に…………」
　史和は自分の記憶が間違っている事を祈りながら用紙の文字を目で追う。
　そして、その言葉で止まった。

〝散歩〟

　どうやら史和の記憶は間違っていなかったようだ。
「あの…………」
　固まってしまった史和の横に立ち、梨架もそれを覗き込む。
　そして、
「…………あっ」
　梨架もそれに気付いた。
「やっぱり、この通りにしないといけないんですよね……」
　梨架が固まったままの史和に訊く。どうやら梨架の方が立ち直りが早かったようだ。
「そうでしょうね」
　上の空な返事だった。
　外は雨である。
　まさかこの中を……？　と不安にかられる。
　しかし、この通りにしなければいけないのだから、そうしないといけないのだろう。
　考えていても仕方ない。今は考えるよりも覚悟を決めるべきだろう。
「ねぇ、そろそろ準備をした方がいいと思いますよ」
　やはり女性の方が強いようで、梨架は覚悟を決めたようだ。
「それしかない…………んでしょうね」
　史和は覚悟を決めたというよりは諦めたという感じだった。


　滞りなく朝食を終えた二人は、早速外出の準備にとりかかる。ゆっくりとした朝食だったので、外出と決められた時間まであまり間がない。もっとも、準備するような事もないのだが。
　ただ、時間は覚えておかなければならないだろう。
　別に紙を持ったままでもいいだろうが、それではいけないような気がする。
　そもそも、それほど細かく決められたものでもないのだ。覚えてしまおう。……というわけで、二人は外出までの時間、それを覚える事にしたのだった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「そうですね」
　時間がきたので、二人は部屋を出る。
　階段を降りて玄関に向かうと、女生徒すれ違った。食事の時、給仕をしていた人だ。
「お出掛けですか？」
　そう訊かれたので、
「はい。少し散歩をしようと思いまして」
「素敵な街ですから、歩いてみたくなったのです」
　と、史和と梨架はそれっぽい事を言う。
「そうですか。なにもない街ですが」
　と、女性は二人が演じているのが嬉しいのか、にこやかにそう言った。
「お昼は十一時三十分頃には帰ってきますので、その頃にお願いできますか？」
　史和が女性に言う。
「…………は、はい。わかりました」
　女性は一瞬驚いたようだが、会釈をして言った。
「それでは行ってきます」
　梨架はそう言って会釈を返す。
　が、玄関を出た途端に聞こえてくるのは雨音だけだ。
　できるならこういう日に外出はしたくないのだが、今回ばかりは仕方ない。
　二人はフードを被ると外に出た。
　雨が降っていなければ本当に長閑で綺麗な景色だったのだろう。
　だが、今は雨に覆われてしまっている。それが残念だ。
「それにしても、雨の中を散歩するなんて、今まで考えもしなかったな……」
　史和がぽつりと洩らす。
「本当ですね。私も考えた事なかったです」
　そう言って二人は笑みを浮かべる。
「なんだか悪戯盛りの子どもの気分かもしれませんね。なんだかウキウキしてくる」
「富所さんもですか？　私もなんです。小さい頃みたいになんでも楽しいというか……」
「そんな感じですね」
　雨合羽を着て長靴を履いて外ではしゃいだ記憶が甦る。その当時はそれが無性に楽しかった。さすがに今ではそれはできないが、似た気持ちにはなる。
　二人はたわいないお喋りをしながら、演技などではなく本当に散歩を楽しんでいた。ちゃぷちゃぷと楽しそうな音を奏でながら。
　きちんと手入れがされた綺麗な庭のある喫茶店のような店に来た時だった。
「どうですか、うちの店で休んでいかれませんか？」
　庭先の花壇の手入れをしていた店主らしい人が声を掛けてきた。
　二人は返事の前に、その人の格好に言葉を失った。
　その人は、雨にもかかわらず傘も差さず、かといって雨具を着ているわけでもない。ずぶ濡れなのだ。
「あの…………」
　史和は思わず声を掛けそうになって、慌てて自分を制止させる。
「そうですか。ではお言葉に甘えさせていただく事にします」
　梨架がゆっくりと頷きながら言った。
「そうですか。では、どうぞ」
　二人は店主に案内され、店の中に入っていった。
　店の中に入ると、中にいた数人の客が一斉に入口を見た。
「やあ、これは修道士様ではないですか。散歩ですか？」
　入るなり、カウンターに座っていた口ひげを蓄えた男が話し掛けてくる。
「はい」
　史和は驚きながらも答える。
「そうですよね。こんないい天気ですから。散歩にはもってこいでしょう」
　男は外を見ながら言う。
「そうですね。澄み切った空の下を歩くのは大変気持ちのいいものです」
　史和は淡々と言う。
　そう、食事時に確認するように言われている。今日は晴れなのだ。快晴なのだ。
　実際には雨が降っていようが、今この時は快晴なのだ。
「そうですね……空気もおいしくて、素敵な街ですね」
　梨架も笑顔で言う。
　それを聞いて、店の中にいた全員が笑顔になる。
「まあ、特になにがある街ってわけでもないですが、ゆっくりしていって下さいや」
　そう言うと、男はカップの飲み物を飲み干した。
「修道士様、どうぞお席へ」
　店主はずっと立ったままだった二人に席を勧める。二人が案内されたのは奥の方のテーブル席だった。
「なにか飲み物を…………なにかご希望はありますか？」
　さて、そう訊かれたがどう答えていいものかわからない。史和は周囲を見回す。
　と、中の一人がマグカップを少し上げる。
「あの方と同じものを……」
　史和は戸惑いながらもそう言った。
「かしこまりました。ホットミルクですね。なにか軽食もご用意しましょうか？」
「いいえ、先程朝食をいただいたばかりですので」
　梨架が即座に遠慮したが、
「わかりました。クロワッサン・サンドですね。すぐにご用意します」
　そう言うとカウンターに戻っていった。
「富所さん……私…………」
　梨架は失敗してしまったという顔になっている。
　確かに間違ってしまったが、筋書きを知らないのだから当然ではある。
　このとちりを責める事など誰にも出来ない。
　街の人たちもそれは理解しているようで、責めている様子はない。
「それにしても、朝食を食べたあとになにかあるとは思っていなかったな……」
　史和はさきほどのオーダーを思い出していた。
　クロワッサン・サンド――確かに軽食だろうが、朝食のすぐあとで昼食の前だ。なにかを胃に入れる事になるとは思っていなかった。
「そうですね。もしかすると、本物の修道士さんたちは大食いの方だったのかもしれませんね」
　梨架は笑顔で言うが、その笑顔もどこか引きつっているように見える。
「とにかく、食べるしかないだろうな。でないと、全部ぶち壊しになってしまう」
「そうですね」
　二人はため息を吐いて観念する事にした。
　しばらくして運ばれてきたクロワッサン・サンドは店主が気を利かせてくれたのか、本当にそういったものなのか、クロワッサンに生野菜を挟んだものが一つずつだけだった。
「これならなんとか食べれそうですね」
「ああ」
　二人はホットミルクを飲みながら、クロワッサン・サンドを堪能し、その店を出ていった。


　指定の時間が近くなり、二人は宿屋に戻ろうとしていた。
　が…………道がわからない。
　だいたいの道は覚えているのだが、特に目印らしいものがないので迷ってしまったのだ。
　二人は顔を見合わせ、どうしよう、という顔になる。が、それで解決できるものでもない。
　記憶を頼りに街の中を歩く。
　とりあえず、途中に立ち寄ったあの喫茶店を目指す。そこが見つかればなんとかなるはずだ。
　しかし、それすらも見つからないのはどうしてだろう。見過ごしてしまったのだろうか。できるだけ角を曲がらずにまっすぐ歩いてきたつもりだったのだが……。
　どうしようかと途方に暮れていたところに、
「修道士様、こんにちは。お昼の用意がもうすぐできます」
　と、そこへあの給仕の女性がやってきた。
　心配で見に来たのだろうか、それとも偶然なのだろうか。それはわからないが、二人にすれば天の助けだ。
「これから宿に戻るところでして……」
　史和が助けを求めるように言う。
「そうですか。よろしければ一緒に帰りませんか。買い物の帰りで、わたしも帰るところでしたから」
　彼女は買い物鞄を持ち上げて見せる。
「そうですか。それではご一緒しましょう」
　二人は心底安堵した。
　これでなんとか続けられる。
　二人は女性についていき、なんとか宿屋に着く事ができた。

　昼食を摂った二人が次にしなければいけない事は〝礼拝〟だった。
　一度部屋に戻った二人は、少し憂鬱になった。
　今まで礼拝をした事はもちろんない。
「どうしましょうか……」
　史和は少し期待した目で梨架を見る。食事時にお祈りができるのだから、少なくとも自分よりは慣れているのだろう。
　梨架もそれを察したのか、
「私にどこまでできるかわかりませんが、なんとか頑張ってみます」
「ごめん。僕がなにもできないばかりに……」
「そんな事ないですよ。側にいてくれるだけで安心できますから」
　と、そう言って、自分がなにを口にしたのかに気付き頬を赤らめる。
「さ、さあ、礼拝に行かないといけませんね」
　梨架は慌てて誤魔化すように言うと部屋を出ていった。
「………………」
　史和は呆気にとられながらも、置いていかれてはたまらないと、慌てて後を追った。

　礼拝堂は宿屋のすぐ近くにあった。ここではさすがに迷う事はない。
　大きな扉を開けて二人は中に入る。
　中は薄暗かったが、黴臭さはなかった。
　それもそうか、と史和は思った。
　毎日使用しているのだ。当然か。
　中は長椅子が左右にそれぞれ十列並んでいる。
　中には誰もおらず、淋しさよりも不気味さを感じさせる。それは屋根を打つ雨音もそれを演出していた。
　二人は真ん中の通路を歩き、突き当たりにある祭壇の前に立つ。
　そこには、十字架の真ん中に円が描かれる――いわゆるケルト十字が彫られていた。
　梨架は祭壇の前に跪き両手を組む。史和も見よう見真似で跪き両手を組む。
　梨架は目を閉じて組んだ自分の手に口づけをした。
　史和は横目でそれを見ながら、自分も真似る。
　梨架は目を開け、天井を見上げた。
「天に召します我らが主よ。我らを見守られておられます我らが主よ。我らは主の懐に抱かれ、安らぎを与えられております。全てを慈しみ、嘆き、憂う……その御心。その心が悠久のものであらんことを――」
　梨架は淀みなく言葉を紡いでいく。
　それを隣で見ている史和からすれば、梨架は紛れもなく〝本物〟だった。
　今までに感じた事のない空気を彼女から感じ、思わず鳥肌が立った。
（すごい…………）
　もちろん、梨架にこういう経験があるとは思えない。
　そういう場所に参加した事はあるのかもしれないが、自分が祭壇で祝詞を唱える事はなかっただろう。
「――主よ、我らの声が主に届き、聞き入れて下さるよう。我らは常に主と一つであらん事を願い、常に主を心に描き、祈り続ける事を誓いましょう」
　梨架は再び目を閉じ、自分の手に口づけをする。
　しかし、今度はすぐに顔を上げずに、しばらくそのままで祈っている。
　なにを祈っているのだろうか。
　それは本人にしかわからない。


　礼拝堂をあとにした二人は、スケジュールに従い再び散歩をする事になった。
　昼過ぎには雨は上がり、晴れとまではいかないまでも、雲の隙間からは太陽を見る事ができた。
　木の葉は水滴を纏い光り輝いている。
　草花は潤いを得て活き活きと天を目指している。
　空気は汚れを失い生まれ変わる。
　それらは皆、雲のカーテンが開き、陽の光を心ゆくまで全身で浴びる事を望んでいるようだった。まるで夜明けを待っているかのように……。
「気持ちいいですね……」
　梨架は大きく深呼吸する。キラキラした空気を全身に取り込む。
　そんな梨架の顔は輝いて見え、史和は胸が熱くなるのを感じた。
　旅を始めてまだ一月ほどしか経っていないのに何年も一緒にいるように感じる。それだけ充実しているという事だろうか。
　それでいて、出会った時が昨日のように思い出せる。
「どうしたんですか？　私の顔になにか付いていますか？」
　そう言われてハッとなる。気がつかないうちに梨架の顔を凝視してしまっていた。
「あ、いや……なんでもないんです」
　史和はあたふたと大袈裟に反応してしまう。
「本当ですか？」
　梨架は訊き返す。
「本当ですよ。ちょっと……ぼぉっとしていただけですから」
「そうですか。じゃあ、そういう事にしておきましょう」
　梨架は手を口許にそえてくすくす笑う。
「そういえば、もうすぐ一日が終わりますね……」
　梨架が切り出す。
「そういえばそうですね」
　この街に来たのが昨日の今頃だ。それから丸一日の行程をこなそうとしている。
　もう一度繰り返すと終わりになる。
「まだ一日も経っていないのに長く感じますね……」
　その言葉を聞いて史和はなんともいえない気持ちになる。
　つい今し方、自分は同じ様な事を考えていたのだから。もっとも、この街に限らず旅全体に関してだが。
「確かにそうですね。色々としなければならない事が多かったですから……」
　史和にすれば多くの事が初めてだった。
　食事の前にお祈りをした事もなければ、礼拝堂で神に祈りを捧げた事もない。……どうも神事はした事がないんだな、と思う。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
　気儘に歩いていたが、そろそろ宿に戻った方がいいだろう。気付けば陽も沈もうとしている。
　史和は懐から金色の懐中時計を取り出して時間を確認する。
「そうですね。そろそろ帰る時間みたいです」
「名頃惜しい気もしますけど……仕方ないですよね」
　梨架は残念そうに呟く。
　本当ならもっとこうしていたい。だが、そうもいかない。郷にいれば郷に従えである。
　史和は、また明日も……と言いかける。
　だが、明日は街を出ないといけない。朝の散歩はあるものの、やはり時間が決められており、ゆっくりできそうにない。
　もっとゆっくりと見て回りたい……。
　その気持ちは史和も同じだった。
　行動を制限され、決められていたので、最初は早く出たいと思っていたのだが、今ではもっといたいと思っている。
　これが旅の楽しみだと彼は思っている。
　後ろ髪を引かれる思いだが、二人は決められたとおりに宿に戻っていった。
　こうして、一日の行程を終えた。


　宿に戻り、昨日と同じように夕食の時間まで部屋で過ごす事になる。昨日はなにもわからず戸惑って時間が過ぎていったが、今日は時間を持て余してしまう。なにもする事がない……という事もあるが、なにもできないという事も理由の一つだ。行動表以外の事はできない。
「それにしても、どうしてこういう事をしているんでしょうね……」
　史和はベッドに寝転がったまま椅子に腰掛けている梨架に訊いた。
「どうしてなんでしょう？　街の人ももう慣れているようですし」
　そうなのだ。一朝一夕の事ではないように感じる。長い間しているのだろう。
　と、そういう事を考えたところで理由がわかるわけでもない。あくまでも時間潰しにすぎない。
　そういう事でもしていないと退屈でしょうがない。
　ふと窓の外に目をやると、茜色の夕陽が沈んでいこうとしている。雨のあとで空気が澄んでいるからなのか綺麗に感じる。
「綺麗ですね……」
　梨架が呟く。
　この風景を描こう……。
　普段ならそう思うのだろうが、どうしてか今回は意欲がわいてこない。
　どうしてもスケッチブックに手が伸びない。
　無理に描く事はできない。描きたい時に描きたい風景を描く――それが史和の描き方だ。
　そもそも、描くというよりも、風景が史和に描けと促すのだ。
　そういう描き方をしてきているので、別に描かなければいけないという強迫観念はない。が、それでも少し淋しく感じる。
　要は手持ち無沙汰なのだ。
　宿に帰ってきてから夕食までおおよそ二時間……この間、なにをすればいいものか。部屋にいなければならず外出は出来ない。
　気分さえ乗れば絵を描くのだが……やっぱり無理だ。
　そんな事を考えていても時間は過ぎていくもので……。
　コンコンというノックの音がした。
　もうそんなに時間が経ったのか……と思うが、まだ外は暗くなっていない。時計を見てもまだ夕食には早い。
　まさか、時間を間違えたのか？　とも思ったが、そうでもないようだ。行動表には昨日と同じ時間が書かれている。
　じゃあ、なんだ？
　不審に思いながらも、
「はい」
　と、返事をする。
「すみません、夕食の前にお話がありまして……」
　と、遠慮がちな声がした。声からするにあの給仕の女性のようだ。
「どうぞ、中に入ってきて下さい」
　梨架が声を掛ける。
「それでは、失礼します…………」
　やはり遠慮がちな声で言い、ゆっくりとドアを開けて中に入ってきた。
「すみません、突然に……」
　そう言って、ドアの近くに立つ。そこから動く様子はない。
「どうぞ、座って下さい」
　それを見て、梨架が席を勧める。
「それでは、失礼します……」
　しきりに遠慮しながら女性は椅子に腰掛ける。梨架が向き合うように椅子の向きを変える。史和はベッドに腰掛けたまま女性の方を向く。
　女性は俯いたままじっとしている。なにか話があるらしいのだが、一向に口を開こうとしない。
　気持ち悪い沈黙が続く。
　だが、これを破るのも躊躇われる。
　仕方なく、ただただ無言の時間を過ごす。
　重い……。
　どうしてこうなってしまったのだろうか……。
　話があると言って入ってきた彼女はどうして黙っているのだろうか……。
「あの……」
　なんとかこの空気を打破しようと勇気を振り絞って言葉を発する。
「………………」
　しかし、どうやら失敗したらしい。重い空気は変わらない。
「あの……どうされたんですか？」
　梨架が優しい声で言う。
「………………」
　しかし、彼女は沈黙を守ったまま。
　話があると言って入ってきておきながら無言とはどうだろうか。
　それから、なにを話し掛けても答えようとはしてくれなかった。
　時間が長く感じたので定かではないが、三十分は経っただろうか、ようやく彼女が口を開いた。
「すみません。これもしなければならない事でしたので…………では、お食事の用意が出来ましたらまた来ます」
　と、そう言い残して部屋を出ていった。
　残された二人はただ茫然としているしかできなかった。


　やがて夕食の時間になった。
　昨日と同じようにフィスタがドアをノックする。
「お食事の用意が出来ましたので、食堂へいらして下さい」
　決められた台詞を決められた通りに言う。
　それが悲しいような気もするが、今はそれしかできない。
「わかりました」
　梨架が扉越しに返事をする。
　繰り返される一日。
　史和は憂鬱になる。
　大勢で過ごすのは嫌いではないが、好きでもない。またあの大勢で食卓を囲むのか……と、それを考えるとため息が自然と出る。
　それに加え――お祈りである。どうも、あれは慣れそうにない。もっとも、慣れる必要はないのだが。
「じゃあ、行きましょうか」
　梨架に促され史和は重い腰をあげる。

　食堂には昨日と同じように大勢の人がいた。
　昨日ほどではないが、やはり緊張する。
　街の中では演じるといってもある程度は自由にできていた。だが、ここではそうはいかない。大勢の人がそれぞれきちんと演じなければ成立しない。
「さあ、お二人もお席に」
　フィスタに勧められ昨日と同じ席に着く。
　それを合図とするように料理が運ばれてくる。
　テーブルに並べられたのは、昨日とあまり変わらないものだった。ただ、スープの色が昨日より赤っぽいのはトマトベースだからだろうか。
「修道士様、お祈りをお願いします」
　昨日からずっとしていたので戸惑いはしないが、やはり憂鬱になる。
　そんな史和はさておき、梨架は手を組んで目を閉じる。
「母なる海より生まれ、父なる大地に育てられ、全能なる天に見守られし全ての生きとし生ける者たちの生命に感謝を捧げ、我々の未来が希望で満ちるよう――全てのものに感謝を」
　梨架は昨日とは違う言葉を紡ぐ。
　その事に街の人たちは驚きを隠せなかったようだが、それでも黙って祈りを捧げた。
「それでは、いただきましょう」
　梨架はゆっくりと目を開け、スープを一口飲む。
　街の人たちも思い思いに食事を始める。
「それにしても驚いた」
　史和が梨架に話し掛ける。
「そうですか？」
　梨架はしれっと答える。
「まさか、昨日とは違う言葉だとは……思わなかったです」
「だって、同じじゃつまらないじゃないですか。ちょっと変えないと」
　梨架は、悪戯が成功した子どものように笑った。

　食事を終え、部屋に戻ってきた二人は、椅子に座って食休みをしていた。
（…………描こう）
　ふと史和は絵が描きたくなり、荷物の中からスケッチブックを取り出す。
　唐突なその行動に梨架は驚くが、静かにそれを見守っている。
「ホントに気まぐれですね……」
　つい先程まで描く気がしないと言っていたのに、今は描く気満々のようだ。
　だが、強制されてではなく、自分が思うままにするのが一番だと思う。それが梨架には羨ましい。
　史和はスケッチブックを取り出すと、ほんの少し悩んで、すぐに鉛筆を走らせる。
　描き始めなのでまだなにを描いているのかはわからない。梨架は後ろからスケッチブックを覗き込む。
　元々、史和はそういう事をされるのが嫌いだった。だが、梨架に関してはそう感じない。
　なので、視線を気にせず、一心不乱に鉛筆を動かしていく。
　その動きには迷いはなく、かつ乱れる事なく一定のリズムで動き続ける。
　相変わらず描くのが速いので、すぐにだいたいの絵がわかるようになる。
　どうやらあの教会を描いているようだ。
　昼間の事を思い出すと、自然と笑みがこぼれる。
　最初は嫌そうにしていた史和も、次第に楽しくなってきたのか率先して掃除を始めた。最後には名残惜しそうにすらしていた。
　それがよほど記憶に残っているのだろう。
　そして、その絵はあっという間に完成した。
　ちょうど、入浴の時間だった。
　二人は汗を流し、床に就いた。


　そして迎えた最終日の朝。
　この日も、予定よりも早く目が覚めてしまった。
　まるで遠足前の子どもみたい、などと二人で笑いながら支度を済ませる。
　窓の外は明るく、今日は雲一つない快晴だった。昨日の雨が全てを流して、世界が生まれ変わったかのようだった。
　清々しい気持ちで迎えたこの日、二人は全てを知る事ができるという期待で胸がいっぱいだった。
　だが、その前にこのしきたりのようなものを最後までこなさなくてはならない。
　二人は行動表を改めて確認する。
　基本的な流れは昨日と同じだ。
　ただ違うのは、礼拝のあとは散歩ではなく、出発の準備をするという事くらいだ。
　昼過ぎまでは昨日と同じなのでなんとかなるだろう。
　昨日と同じように朝食を食べ、昨日と同じように宿を出る。まるで毎日繰り返してきたかのようだ。

「気持ちいいですね……」
　外へ出るなり、梨架は大きく深呼吸をする。空気を身体いっぱい取り込む。
　それに倣うように、史和も大きく深呼吸をする。
　昨日の雨天とは違い、本当に気持ちがいい。
　この街の本来の姿をようやく見れた感じだ。
　そのせいか、足取りも自然と軽くなる。
「今日は、昨日とは違う場所に行ってみましょうか」
　史和も自然と明るい表情になる。
「そうですね。お昼まで、ゆっくりと歩きましょう」
　梨架もにこやかに答える。
　まだまだ知らない場所、見た事もないものばかりだ。
　相変わらず道がわからなくて迷ったりもするが、二人は楽しく会話を交わしながら街を散策していく。
　まるで、こうしている事が当たり前であるように振る舞っている。それは、街に溶け込んでいた。
　ただ、ゆったりとした時間が流れていく。手放したくない時間。
　これからも繰り返すであろうに、それでも今しかないようでもあり。
　再び出会う事のない、この一瞬一瞬の時間を大切に二人は街を歩いていた。
　やがて、昼食の時間が近くなり、二人は宿へと戻っていく。
　昨日のようにならないように、ある程度は道を覚えていたが、やはり迷ってしまった。
　それでも、わずかに見える礼拝堂を目印に歩いていく。
　余裕を持って歩いていたので、なんとか遅れる事はなかった。

　この街での最後の食事を摂り終えると、礼拝堂に向かう。
　そこでも、昨日と同じようにお祈りをすると、宿に戻って出発の支度を始めた。


「なんだか淋しいですね」
　部屋を出る時、梨架は振り返ってもう一度部屋を見た。つられるように史和も部屋を見る。
　実質二日という短い間だったが、色々な事があったように思う。かといって、特に珍しい事をしたようにも思えない。
　行動表通りにしなければならないというのは珍しい経験だったが、特に無理があったわけでもないし、史和にすれば礼拝以外は新鮮なものもなかった。
　それでもどうしてだろう。
　なにか特別を感じる。
　長い間この部屋にいたみたいな気分だ。
　二人は名残惜しく思いながら宿を出た。
「またいらして下さい」
　フィスタに見送られ――

　二人は教えられたとおりの道を歩き、街の入口を目指していた。
　時々すれ違う街の人々からは感謝の言葉を投げかけられたように感じる。言葉にはしなくても、そう感じる笑顔を向けられる。
　それほど、この街の人たちはこれを大切にしていたのだろう。
　そう思うと、余計にこの街の秘密を知りたくなり、二人の足が自然と早まる。
　だが、出国も行動表で決められているので勝手に出るわけにはいかない。
　その事を思い出し、もどかしさを感じながらもゆっくりとした歩調に戻す。
　懐中時計で時間を確認しながら、最後になるであろう街の風景を楽しむ事にした。
　そうこうしていると、街の入口が見えた。
　時計を確認すると、ちょうどいいくらいの時間だ。
　街の外には、二人の男が同じように修道服を纏って待っている。次は彼らのようだ。
「もう、本当にお終いなんですね」
「そうみたいだね」
　できるなら、もう一度演じてみたいとも思う。だが、彼らは同じ世界に長い時間いる事ができない。それに、必ずしも急ぐ旅ではないとはいえ、できるだけ急いだ方がいいような気もする。
「じゃあ、行きましょうか。どうして、こういう事をしているのか気になりますし」
「そうですね」
　史和と梨架は顔を見合わせると、街の外へ出た。
　これにて、二人のこの街を舞台にした幕は下ろされた。


　芝居がはけた二人は、入口の小屋に案内された。
「お疲れさまです」
　一人の若者が労ってくれる。と同時に、別の男がホットミルクを持ってきて二人の前に置いた。
　二人はお礼を言ってホットミルクを飲む。なんだか安心する。
「あ、そういえば、これ……」
　梨架はフィスタの手紙を思い出し、それを目の前の男に渡した。
「……ん？　なんですか？」
　男は不思議そうにその手紙を受け取る。
「フィスタさんからの手紙です」
　史和が補足する。
「フィスタからの……？　じゃあ、オレは見ない方がいいな」
　男は開きかけていた手紙を閉じ、
「おい、ストム！　フィスタからの手紙だそうだ」
　と、誰かを呼ぶ。
　そういえば、文面にその名前があったように思う。
「なんですか？」
　名前を呼ばれたストムが二人の所に来る。
「次は俺の番なんですけど……」
　時計を見ると、もうすぐ入国の時間だ。
「まあ、お前宛だろうからな、急ぎだとまずいだろ」
　そう言われて、ストムは手紙を開ける。
「なんだろうな…………」
　ストムは首を傾げながら手紙を読んでいく。
　無言で読んでいたが、徐々に表情が暗くなっていく。なんだか重い空気を感じる。
「すみません。ちょっと順番代わってもらっていいですか」
　着ていた修道服を脱ぎ、一人の男に渡す。
「まあ、構わないけどよ」
　渡された男はその修道服を着ると、小屋を出ていった。
「どうしたんだ？」
　残された男がストムに訊く。
「いや……まあ、なんだ」
　ストムは濁すように言う。それを察した男は、
「じゃあ、二人を見送りに行ってくるわ」
　と言って、小屋を出ていった。
「そうそう。しばらく散歩でもしてくる」
　そう付け加えて。

　小屋には史和と梨架、そしてストムだけが残された。
「ありがとうございました」
　ストムはまず二人に礼を言った。
「いいえ。私たちも楽しい旅ができました」
「そうですか。それはよかった。このような事、無理強いしてしまったかと心苦しかったのですが、そう言っていただけて本当によかったです」
　そう言って二人に何度もお礼を言う。
「あの…………」
　どう訊いていいものかわからず、史和はそう言うのが精一杯だった。
「そうですね、どうしてこういう事をしているのか……。きちんと説明しないといけませんよね」
　それだけで理解したらしい。
「順番に話していきましょう」
　その言葉を聞いて、二人は自然と胸が高鳴るのを感じた。
「これは、もう四年半近く前になるでしょうか。この街に二人の修道士が訪れた事に始まります」

　その日、二人の修道士がやって来た。
　常にぬかるんだ森に囲まれたその街は交通の便がいいわけではなく、かといって街道からも離れているため訪れる人は少なかった。
　観光地というわけでもないため、慢性的な貧困に喘いでいた。
　そんな街への旅人。街の人たちは心から歓迎した。元々、信仰心が強かった彼らは、その旅人が神に仕える人であった事もあり余計だった。
　修道士の二人が泊まっている宿で、大勢で食事をし、自分たちに神の加護があるようにと祈った。
　修道士はそのもてなしを大層気に入り、たった三日（丸二日）であったが、満足したように帰っていった。
　その際に、自分たちが受けたもてなしを一〇〇〇回繰り返せばこの街は幸に恵まれるであろう、という言葉を残した。
　それを受けた街の人々は、その時街にいなかった者を旅人に見立て、その時のもてなしを繰り返し始めた。

「なるほど……それが、この街なんですね…………」
　史和は大きく頷いた。
「そうです。その時、俺たちはこの街にいなかった。だから、こうしてずっと修道士としてこの街を訪れる役になったのです。ちなみに、あなた方で八二七回になります」
　その回数を聞いた二人は、驚かずにはいられなかった。繰り返された年月を考えると驚く事でもないのだが、その回数を改めて言われると驚いてしまう。いや、感嘆だろうか。
　全く気の長い話だ。
　しかし、あと一〇〇回以上繰り返すという事だ。まだ一年はこれを繰り返す事になる。
　その一回を担えた事は嬉しくもあり、改めてその責任の重さを感じた。
　なんとか無事にこなせてよかった……と、胸を撫で下ろす。
「そういうわけで、こうなっているわけです。これがおおまかな経緯です」
　それにしても、すごい街だ。街全体で祭事を行っているという事になる。修道士が言った事を実行にうつしてしまうというその行動力もすごい。信心深さがなせる業だろう。
「それとは別に気になっている事があるのですが……」
　史和は思い切って訊く事にした。
　そう、フィスタの事だ。
　あの時、どうしてフィスタは自分たちの部屋に来たのか。その時、彼女はなにも言わなかった。だが、その代わりに手紙を置いていった。ストムに訊いてくれ、という。
　本当なら話したくない事なのかもしれない。だが、どうしても知りたいという探求心――いや、好奇心は抑えられない。
　それは梨架も同じだったのだが、どうしても言葉が出なかった。
「フィスタさんは、どうしてあの時僕たちの部屋に来たんですか？」
「………………」
　その言葉を聞いたストムは無言になった。その表情もどこか暗いものになる。
　あれは、他の旅人役からも同じように訊かれた。だが、その都度ストムは知らないと言ってきた。できれば言いたくない。というよりも、思い出したくないのだ。
　それでも、あの時間になると嫌でも思い出してしまう。思い出さされてしまう。
　あと一〇〇回はあの時間を過ごすのか……と思うと、ストムは気が滅入る。だが、当のフィスタはその倍だ。どれだけ辛い思いをすればいいのだろうか。これだけ繰り返してきたのだから、彼女こそ救われていいはずだ。
　本当に神様なんているのかな……。いるとしても、こんな苦しみを与えるだけなら、消えちゃえ！
　……と、幾度となく思ってきた。
「そうですね。フィスタが話して欲しいと書いているわけですから…………話しましょう」
　正直、気は進まない。
　だが、話してあげてというフィスタの気持ちを無下にするわけにもいかない。
「これは、他の人たちは知りません。旅人役の仲間もそうですけど、街の人たちも、です」
　そう前置きして、ストムは暗い表情のままゆっくりと語り始めた。


　当時――
　二日目の夕食前――
　フィスタは相談のために修道士の部屋を訪れた。
　ドアをノックする。
「どうぞ」
　と、修道士の野太い声が返ってきた。
「失礼します」
　フィスタはゆっくりとドアを開け、中に入った。
「どうしたのですか」
　向かい合うようにして座っていた二人の修道士が同時にフィスタを見る。
「おくつろぎのところ申しわけありません。実は、悩みがありまして、相談にのっていただけないかと……」
　フィスタはモジモジとしながら言う。少し頬も赤くなっている。
「悩み、ですか……。いいでしょう、我々が相談にのりましょう。神の御心のままに」
　そう言うと、二人はフィスタをベッドに座らせた。
「それで、悩みというのは……？」
　修道士は真摯な表情を作りフィスタに訊いた。
「実は……婚約者がいるのですが…………」
「婚約者が浮気でもしているのではないか、という事ですか？」
　言いづらそうにしていたので修道士が訊く。
「いいえ、そういうわけでは……」
　フィスタはゆっくりと首を振る。
　話を聞くと、どうやら、ただ漠然と不安になっているだけのようだった。修道士は、結婚前は誰しもそういう不安に駆られるものですよ、と諭した。
「そういうものなのでしょうか……」
「ええ。ところで、その婚約者はどこに……？」
「今は出稼ぎに行っています。もうすぐ帰ってくる予定なんです」
　フィスタは嬉しそうに言った。
「なるほど……今はいないわけですね」
　それを聞いた修道士たちの目が輝いた。
「では、さぞかし欲求不満でしょうな……」
　そう言うや否や、修道士はフィスタをベッドに押し倒した。
　きゃっ、とフィスタは逃れようとするが、男二人に押さえ込まれてしまっては逃げるに逃げられない。
「実は我々も溜まっていましてね…………」
「まさに、神の思し召しというわけなのですよ」
　ギラギラとした目で修道士たちはフィスタを見る。
　………………そして、そのままフィスタはされるがまま、修道士の慰み者にされた。

　それを聞かされた梨架は涙が溢れた。
「そんな事が…………」
　史和もなんと言っていいのかわからない。
「実は、俺も最初は知らなかったんです。街に帰ってきた時には、その修道士たちは出ていった後でしたから。街の人に言われて、今のようになったわけです」
　ストムは悔しそうだった。
「最初は俺も不思議でした。どうしてフィスタはあの時間に部屋に来て、そしてなにもせずに出ていくのか……。だから、ある時――そうですね、二〇回目くらいだったでしょうか、問い詰めたんです。そうしたら、涙ながらに話してくれました」
　思い出したのだろう。ストムは強く唇を噛む。
「俺は怒りで狂いそうになりました。その修道士を殺してやりたくなりました。…………でも、できなかった。修道士がもういないという事もありましたが、フィスタが言ったんです、街の人たちには秘密にしておいて、と。誰にも知られたくないから、と。この芝居を繰り返すのは、街全体の意思。それをやめさせる事ができなかった。やめたところで、フィスタの過去が消せるわけじゃない。悔しかったです。今でも悔しい」
　ストムはテーブルを殴る。どこかに捌け口を作らないとやっていられないだろう。
　もし梨架が同じ目にあったら……史和はそれ考える。自分はどうするだろう。きっと、そいつらを殺したいと思うだろう。
　それで哀しみが消えるわけじゃない。傷が癒えるわけじゃない。過去がなくなるわけじゃない。
　そんな事は百も承知だ。
　それでも、そうするだろう。
「すみません。訊くべきではなかったですね」
　訊いてしまった事を後悔した。好奇心――それだけの軽い気持ちで訊くべきではなかった。
「いいえ、そんな事はありません。むしろ、聞いてもらってよかった」

　二人はやりきれない思いのまま街をあとにした。
「本当にありがとうございました。おおよそ一年したらこの芝居も終わります。その時にまたいらしてください」
　ストムに見送られて。
　一年後。その時には、彼らは夫婦となっている事だろう。
　史和と梨架はもう一度会いたいと思った。だが、無理だろう……。それが現実だ。希望とは相容れない。
「こちらこそ、お世話になりました」
　梨架は大きく手を振り返した。史和も手を振る。
　徐々に小さくなっていく人影。それでも、ずっと手を振っていた。
　見えなくなるまで――ずっと。
　二人はそれから終始無言だった。
　あんな話を聞かされて、なにを話せばいいというのだろうか。
　街の人たちは希望で満ち溢れている。
　必ず幸せになれると信じている。
　そんな思いを裏切れずに、あの二人は自分を犠牲にして、感情を押し殺している。
　幸せになって欲しい。
　そう――あの二人が幸せになれないような未来なんていらない。なくなっちゃえ。
　様々な想いを抱え、二人は次なる世界に行くため『時の口』に入った。


　――ボーン！　ボーン！　…………！

　お城の時計が大きく鳴り響く。
　カチリと時計の針が進んだ。

―三つの国～罵る人々の話～―



　目の前には大きな壁があった。それは、まさに全てを退けるような壁だった。
　なにも寄せ付けない威圧感がある。
　その壁の前に一組の男女が立って、それを見上げていた。
「本当にすごいですね……」
　女性の方が唖然と言う。
「聞きしに勝る……というやつですね」
　男もそれ以外に言葉が出ない。
　果たしてこの中に入れるのか……入っていいものか……少し不安になる。
「でも、どういう国なのか興味はありますね」
　男は少年のように目を輝かせる。
「思わせぶりでしたもんね」
　女性もきらきらとした顔で言う。
　それは少し前。ここへ来る途中の事だった。

　草が青々と茂るその丘からは、世界が全部見渡せるように感じられる。
　遠くに連なる山々。右手にはさらさらと流れる川。左手には雄大な森が見える。
　その手前に大きな三つの集落があった。
　それほど離れていないようだが、続いているわけでもない。
　きっちりと境界がある。
「どういう国なんでしょうね」
　梨架は心が躍っていた。
「楽しみですね」
　それは史和も同じだった。
　二人は様々な世界を旅している。
　色々な国、様々な街、多くの人との出会いと別れ、そして貴重な経験を繰り返している。
　いつ終わるかわからない旅。
　行く先はわからないけれど、二人はそれを楽しんでいた。
　一緒にいる事が喜びだった。
「じゃあ、行ってみましょうか」
「そうですね」
　二人は丘を下り、道沿いに歩いていく。
　広い平原なので迷う事はないだろう。遠くには街が見えているのだから。
　二人はこれから訪れる場所を想像しあいながら歩いていた。
　と、そこへ二人とは反対の方へ歩いている初老の男性とすれ違う。
「おや、見掛けないが……旅人かい？」
　すれ違い様に男が話し掛けてきた。
「ええ」
　史和は少し警戒しながらも答える。
「そうかい、そうかい。という事はこの先の三つの国へ行かれるのだろ？」
「そのつもりです」
　梨架が答える。
「目的があって行くのかい？」
「いえ、初めてなのでどういう国なのか知らないんです。とりあえず、全部の国を訪問しようと思っています」
　それを聞いた男は意味深に頷く。
「だったら……まずは、右の国へ行くといい。その次は左。最後に真ん中の国だね」
　そして、二人に行く順番を指示する。
「どうしてですか……？」
　史和は男に訊く。これは彼でなくとも疑問に思う。
「最初と二番目はどちらでも構わないんだがな、真ん中の国は最後がいいだろうな。ちなみに、わたしは真ん中の国に住んでいる」
　どうやら、二人が向かう先の住人らしい。
　なるほど、それならどういう国なのか知っていて当然か。
　だが、どうして行く順番を……？
　その疑問は残る。
「まあ、それぞれの国を楽しむといい。だがな、それぞれの国の仲はあまりよくない。だから、あまり他国を褒めない方がいい。とりあえず、その国が正しいと言っておいた方がいいぞ」
　仲がよくない……？　戦争でもしているのだろうか。だが、この綺麗な平原を見るに考えにくい。
　もっとも、これから訪れる国の内情はなにも知らないので、見ただけで判断するわけにはいかない。この国に住む人が言うのだから本当なのだろうし。
「できれば最後の真ん中の国のわたしの所へ来て感想を聞かせてもらえないだろうか」
　史和は、わかりました、と答える。
「わたしは水車小屋のムルカという。門番にわたしの名前を言えば、場所を教えてくれるだろう」
　ムルカはそう言うと歩いていった。
　残された二人は互いの顔を見る。
「どうしましょう……？」
「ムルカさんが言った順番で行こうか」
「そうですね」

　そういうわけで、二人はまずは右の国に来たというわけだ。
　ムルカに言われた事を思い返し、それを心に留める。
「さあ、どんな国だろう」
　二人は門番がいる城門へ向け歩を進めた。


「どのくらいの滞在を希望されますか」
　入国官に言われ、史和はゆっくりと答えた。
「一日で構わないのですが」
「一日……ですか」
　入国官は少し驚いたようだが、それでも仕事を続ける。
「わかりました。あなた方の入国を許可します。宿は大通りをまっすぐ行けばあります」
　二人は入国官に礼を言って無事に入国する事ができた。
「なんだか意外でしたね」
「そうですね。もっと厳しいかと思っていました」
　史和の言葉に梨架も同意する。
「とにかく、まずは宿に行こうか」
　陽が高いうちに宿に一度行っておく方がいい。知らない土地で夜に目的地を探すのは困難だ。街の散策はそれからでも充分出来る。
「そうですね」
　二人は談笑しながら入国官に言われたとおりに歩く。
「それにしても…………」
　梨架は周囲をキョロキョロと不思議そうに見る。
「僕も同じ事を考えていました」
　言おうとする事は同じだった。
　この国は、近代的な雰囲気はあまりなく、どこを見ても畑が拡がっているのだ。
　右を見れば畑、左を見ても畑。
　それも、ありとあらゆる作物を育てているらしく、それはそれで鮮やかだった。
「これが、隣国と争っている国なのか？」
「仲が悪いとは言ってましたけど、戦争をしている……というわけではないみたいですね」
　ムルカが仲が悪いと言っていたので、てっきり戦争をしているのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
　これは戦争をしているとはとても思えない。むしろ、平和で長閑な光景だ。
　もっとも、これは国の一部分だけなので、他の場所はこうではないのかもしれない。たまたまここが農作地帯なのかもしれない。
　それでも、この光景から戦争という単語は思い浮かばない。
　そんな会話をしながら到着した宿は、石造りの立派な建物だった。白い壁とその形は豆腐を連想させる。と同時に、それは病院のようにも見えた。
　二人はその建物に入る。
「いらっしゃい」
　口髭を生やした男が挨拶をする。
「すみません、一泊したいのですが」
「お二人ですね。では、こちらへどうぞ」
　と、男はさくさくと歩いていく。
　二人は慌ててそれを追う。
　階段を上り、また上り、建物の四階の部屋に案内される。
「この部屋をお使い下さい。食事は一階の食堂です。時間は…………」
　と、一通り説明して二人に鍵を渡すとそのまま下りていった。
　二人は戸惑いながらも部屋に入る事にした。
　扉を開けると、閑散とした部屋が目の前に現れる。
　ベッドが二つにテーブル、そして椅子が二脚。壁掛けハンガー。そして絵が一枚。
　部屋の中には別のドアがあり、そこは浴室やトイレなどがあった。
　それなりに設備は整っているようだ。

　陽も暮れ、そろそろ夕食の時間。二人は一階にある食堂に向かった。
　そこには数組の宿泊客が食事を摂っていた。
　二人が入ってきたのを見、給仕らしい女性がテーブルに案内する。
　二人はそこに座りどんな料理なのかを話していると、先程の女性が食事を運んできた。
　目の前の置かれたそれは、籠に入ったパンと赤茶色く透き通ったスープ、そしてポテトサラダだった。
　見ると他の客も同じメニューだ。なるほど、ヘルシーな食事である。
　基本的に好き嫌いのない二人にすれば、別に文句を言うわけでもないし、不満があるわけでもない。出されたものは有り難く頂く事にしている。
「「いただきます」」
　二人は声を揃えて言うと、食事に手をつける。
　赤茶色のスープは野菜の甘みがした。ほんのり酸味があるのはトマトだろうか。色もその色のように思える。
　もっとも、二人は料理評論家ではないので材料がどうのこうのと言うわけではない。自然の野菜の甘さがとっても美味しかった。
　これといったメインはないが、充分満足できる料理だ。ホッと安らぐような気さえする。
　二人は綺麗に料理を平らげると、美味しかったです、と給仕の女性に言って部屋に戻っていった。
　旅の疲れだろうか、入浴を済ませると眠気に襲われ、そのままベッドに倒れ込むようにして眠った。

　翌朝、身体は軽くスッキリとしていた。疲れは完全になく、まるで生まれ変わったようだった。
「おはようございます」
　梨架は笑顔で史和に言う。
「おはよう。今日はなんだか身体が軽いですね」
「本当に。不思議ですね」
「これなら、いつまででも旅を続けられそうです」
　史和は立ち上がり、顔を洗ってきます、と洗面所に向かった。
　梨架は窓の外を見る。
　朝陽を浴びた畑の野菜たちがキラキラと輝いているのが見える。
「本当に綺麗な場所ですね……」
　ぽつり呟く。
　そして、出発の準備をした二人は、パンに野菜を挟んだものをお弁当として受け取ると、宿をあとにした。

―三つの国～罪深き人々の話～―



　二人は城門の前に立ったまま動けなかった。
　それというのも、前の国で聞いたこの国の話のせいだ。
『あの国のやつらは、他の生き物を殺す事に、そしてそれを喰らう事に快感をおぼえるのじゃ。まったく野蛮極まりない』
　その話を聞いた時は好奇心が勝ったが、いざ来てみると話は別だ。
「行きましょうか」
　史和は自分に言い聞かせるように言う。
「行きましょう」
　梨架も同じように言う。
　そして、二人は城門へと向かった。

「ようこそ」
　意外な事に、にこやかに迎えられた。
「どのくらいの滞在をご希望ですか？」
「一日で結構です」
　史和が答えると、太り気味の入国官は書面になにかを記入する。
「あなた方の入国を許可します。それでは、ごゆっくりご堪能下さい」
　聞いていた話とは違うと感じつつ、二人は門をくぐる。
　…………と、目の前に拡がったのは牧歌的な風景だった。
「「………………」」
　二人は言葉を失った。
　どんなに荒れた国だろうかと想像していた部分があったので、その長閑な光景は意外以外のなにでもなかった。
　見渡す限り青々とした草が生い茂っている。それらが柵で囲まれていて、その中には牛や馬や羊などが駆け回っている。
　どうやら、牧畜・酪農で生計を立てているらしい。
　柵で囲まれた空間は広く、どこまで続いているかわからないほどだ。
　二人は道づたいに歩いていく。
　時々、馬が顔を出すが、扱い慣れていない二人は少し怯えながら進む。
「それにしても広いですね…………」
　前の国もそうだったが、異常に広く感じる。
　それはどちらの国にもいえるのだが、建物がほとんど見えないからだろう。人が住む面積の何十倍、何百倍もの広さを占めている。
　人っ子一人見当たらない道を、二人は緊張したまま歩いていた。


　ようやく集落が見えた。途端に安心する。が、同時に不安にもなる。
　野蛮だと言われている国の国民だ。
　入国官は普通の人だった。どちらかといえば優しそうだった。どうしても野蛮という言葉とは結びつかない。
　ただ単に嫌いだからそう言っているだけなのかも、と思い始める。
　こんな国に住む人が、殺す事に快感を覚えるなんて信じられない。
　それとも、こういう国だからこそ、そういう娯楽が生まれるのだろうか。
　どちらにせよもう入国してしまいここにいるのだから、なるようにしかならない。
「おや、旅人かい？」
　不意に声を掛けられる。
　突然の事に、二人は縮み上がる。
　声のする方を見ると、そこには赤銅色のオーバーオールを着た若い男が立っていた。
　史和は無言で頷く。
「旅人なんて久しぶりだな……。そういや、この近くにいけ好かねぇ国があるんだけどな、そこには行くのかい？」
　史和はそれに答えようとしたのだが、それより先に、
「まあ、行かない方がいいね。あんな家畜同然のヤツらの国には。まあ、もう一つの国はおれたちの事を理解してくれてるみたいだからまあいいけどよ。あそこだけはやめといた方がいいぜ。ホント、おれには信じられないぜ。家畜と同じものを旨そうにむっしゃらむっしゃらと……想像するだけでも勘弁だな」
　男は有無を言わさずまくしたてる。
「旅人さんよ、今夜の宿は決まってるのかい？」
「いえ、まだですが…………」
「ならいいや。おれのとこに泊まってけや。歓迎の宴をしてやっからよ！」
　と、男はまた有無を言わさずどこかへ走っていった。
　結果、史和と梨架はその場に置いてけぼりにされてしまう。
「どうしましょう？」
　梨架が不安そうに史和を見る。
「とにかく、お世話になるしかなさそうですね……」
　史和もどうしていいものかわからない。
　ただわかるのは、あの男の世話になるしかないという事だった。


　しばらくその場で茫然としていた二人の元にさっきの男が戻ってきた。
「さあ、そろそろ陽も暮れてきますし、みんなも集まっています！　宴ですよ！　宴！」
　はしゃぎながら二人の手をぐいぐい引っ張って走っていく。二人はよろけながら引っ張られていく。
　連れてこられた場所は厩舎の前だった。
　そこには石で組まれた台の上に大きな網が乗っている。石の台は中が空洞になっているようだ。
　それを囲むように、大勢の人が集まっていた。
「おお、あんたたちが旅人か！」
　恰幅のいい男が大声でまるで叫ぶように言う。
「さて、客人も来た事だし、宴を始めるか！」
　別の男が言うと、一人の女性がなにかを抱えてきた。
「準備は出来てるよ」
　二人はその抱えられているものを見る――そして、嘔吐感に襲われる。
　それは小羊だった。
　ぐったりとしており、生きていない事はわかる。
　そして、これからどうなるのか…………それは容易に想像できる。
「さて、始めるか」
　数人の男たちが包丁を手にし、小羊を捌き始める。
　手慣れているようで、あっという間に各部位に分けられていく。
　梨架は口を押さえながら吐きそうになるのを必死に我慢している。
　勝手だとは思う。
　既に捌かれた肉は平気なのだ。だが、目の前でこういう事をされると、可哀相に思えてしまう。本当に勝手だと思う。
　この国の人たちはなにも感じないのだろうか。
　そう思わずにはいられない。
　だが、どの世界でも同じだ。自分たちがしないだけで、誰かが生きていた彼らを殺し、そしてそれを捌く。
　それを残酷だと誰が言えるだろうか。その行為を悪とするなら、そういう事を考えもせずに、その行為の果てだけを享受している者はどうなるのだ。
　だが――なるほど。
　前の国で言われた事を思い出す。
　確かに彼らは他の生き物を殺す事に快感をおぼえているようだ。そう受け取られても仕方ないだろう。
　そういう行為をしない者からすれば、している者は野蛮に思えても仕方ないだろう。
　勝手なものだ。
　そんな事を考えている間にも、小羊は元がわからない姿になっていた。いまではただの肉塊だ。
　集まった人々は、その肉を無造作に網の上に乗せていく。
　そして、焼き上がったそれに果実で作られたソースをからめる。
　食欲をそそる匂いなのだろうが、目の前であれを見てしまったため食欲がわかない。それでも史和はせっかく用意してくれたものなので食べようとするが、梨架は全くだめだった。
　集まった人たちは旅で疲れているのだろうと解釈してくれ、梨架はそれに甘えて用意された部屋で休む事にした。
　捌く瞬間を見てしまったものの、意を決して口にするとやはりそれは美味で、人間とはなんともよくできていると思ってしまう。本当に勝手なものだ。
　一口食べてしまえばもう同じで、さっきまで食欲がわかないと思っていたのが嘘のように史和の食は進んだ。
（残酷な生き物だなぁ）
　などとは思うが、そう思うだけで食べるのをやめるわけではない。
　食が進むと、自然に打ち解け会話も弾んでくる。
　宴が始まってすぐに、史和は集まった人たちとの歓談を楽しむようになっていた。
　それでも、目の前の料理がなくなっていくにつれ、自然とお開きとなっていった。
　集まった人たちにお礼を言うと、史和は男が用意してくれた部屋に行った。


　翌朝、史和と梨架は男に礼を言うと国を出ていった。
　色々と見て回ろうとしたのだが、どうやらどこも同じ様な風景らしいし、なによりも梨架が長居するのを望まなかった。
「じゃあ、ムルカさんの所に行きましょうか」
　そう言う史和の言葉に、梨架は無言で頷くだけだった。

―三つの国～中立な人々の話～―



　史和と梨架は、最後である真ん中の国の城門の前に立っていた。
「今度はどういう国なんでしょうね」
　史和は平静を装って言うが、梨架はまだ前の国での出来事から抜け出せていなかった。
　吹っ切らないといけないとはわかっているし、自分も同類――それ以上だとわかっているのだが、それができなのだ。
「久門さん、今は前だけ向いて旅を楽しみませんか？」
　そう言われて、梨架は無言で頷く。
　二人は城門に入っていく。
　入国審査室が中に設けられており、そこにはご多分に漏れず入国官が駐在している。
「どのくらいの滞在をご希望ですか？」
　今までの国と同じ様な質問だ。
「二日間です」
　それを聞いた入国官は、規定の用紙に書き込んでいく。
「……あなた方の入国を許可します。どうぞ、中へどうぞ。ごゆっくりしていって下さい」
　入国官が笑顔で告げる。
「ありがとうございます――」
　史和はとりあえずお礼を言い、
「――ところで、僕たちは水車小屋のムルカさんを訪ねて来たんですけど、どこへ行けばいいんでしょうか？」
　その質問に入国官は目を丸くする。
「ムルカさんですか……。なるほど、あなた方も外で会われたんですね」
　入国官は苦笑しつつ言う。
　どういう事なのか史和が訊ねると、入国官は、彼はよく外で声を掛けて色々な話を聞きたがるんですよ、と答えてくれた。
　今までもそういう旅人が多く彼のもとを訪れているらしい。
　二人は入国官に地図――あまりにも多いので、入国官が独断で作成したらしい。ちなみに手書きだ――をもらい、それを頼りに道を進んでいく。
　道の両脇には、なにかの作物を育てているようで、その手入れをしている人たちが忙しそうにしている。
　途中分かれ道があり、右手に進むと街があるようなのだが、ムルカの水車小屋は左手にあるようで、そちらに進んでいく。
　そこからはゆるやかな勾配になっており、ゆっくりと上っていく。
　少し進むと、道の両脇が木の柵で囲まれている。牧草が生い茂っており、動物の姿は見えないがおそらく牧畜が行われていると思われる。
　そこからさらに進むと、目の前には森が拡がっている。水車小屋はその森にあるらしい。
　薄暗いそこに入っていくのは少し怖い気がしたが、ゆっくりと歩を進める。
　しかし、外から見る感じとは違い、意外と光が射し込んでくるようで、思ったよりも明るかった。
　森林浴を楽しむ余裕がうまれる。
　二人は思わず、大きく深呼吸をした。
　今までの二つの国も自然豊かな場所ではあったが、やはりこういう場所とは少し違う気がする。
　身体の中を綺麗にしてくれるような清々しい空気。どことなく甘く感じる。
　疲れもとれていくようで、身体が軽くなった気さえする。
　どこからか、さらさらと水の音が聞こえる。
　小川でもあるのだろうか。だとすれば、そこに水車小屋があるはずである。
　先へ進むにつれ、水の音がハッキリ聞こえてくる。どうやら目的地が近いらしい。
　もう少し進むと、ぽっかりと森に穴が空いたような場所があった。その真ん中に水車小屋が建っていた。


　梨架は小川に歩み寄りしゃがみこむ。そして案の定、手を小川に入れる。
「冷たい……。気持ちいい……」
　梨架は楽しそうに水で遊んでいた。
　史和は地面に腰をおろし、スケッチブックを取り出す。
　そして、さらさらと水車小屋を描いていく。と、ここまでは普段の彼の行動なのだが、今回は違った。水車小屋の側で遊ぶ梨架の姿も描き始めたのだ。
　史和が絵を描いているのに気付いた梨架が、とてとてと駆け寄ってスケッチブックを覗き込む。
「…………うわぁ…………」
　そこに、自分も描かれている事に驚く。
　今まで人物を描く事はほとんどなかった。
　一緒に旅をしている梨架も、史和の絵＝風景画、という図式が成り立っている。例外としてあのロッキングチェアの少女くらいのものだ。
　そのくらいしか思いつかない。
　圧倒的に風景画が多い。
　そんな史和が自分を描いてくれたのだと思うと、嬉しい気持ちと同じくらい恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。
「そういえば、ここには絵を描きに来たんじゃなかったんだ……」
　と、今になって気付いた史和が立ち上がる。もちろん絵は描き終わっている。
　思わず梨架も小川で遊んでしまったが、ここにはムルカを訪ねて来たのだ。
　水車小屋の扉をノックする。
　――が、反応はない。
　どうやら留守のようだ。
　中からは、ガコンガコンという音が聞こえてくる。
　その音のせいで聞こえないのかと思いもう一度――今度は少し強くノックする。
　――が、やはり反応はない。
「留守みたいですね……」
　そう言って振り返った時、梨架の荷物が扉に引っかかった。そのまま振り返ったので、扉が開いた。
「…………どうやら、鍵は掛かっていなかったようですね」
　史和がどうしたものかという表情で言う。
「不用心…………なのでしょうか？」
「いや、平和なんだと思うよ」
　とりあえず……という事で、史和が中を覗く。しかし、やはり誰もいなかった。
　中には木で作られた機械のようなものがあった。
　実物を見た事はないが、粉挽きの機械なのだろう。水車の回転によって、杵と臼で潰された穀物の実が石臼に流し込まれ、そこで綺麗に挽かれている。殻と粉はきちんと分別されていく。溜まった粉は袋に入っていく。
　一連の流れがほぼ自動で行われている。
「絡繰り屋敷みたいだ…………」
　史和はその見事なまでの絡繰りに見とれてしまっていた。
　どれもがうまくできている。
　本当に見事としか言いようがない。
「すごいですね……」
「ええ。これは僕たちの世界の機械よりも凄いかもしれない」
　梨架は単純にすごいと感心しただけのようだったが、史和はその考えられた仕組みにしきりに感心していた。


「やあ、待たせてしまったな」
　そう言ってムルカがやって来た。
　どうやら門番に聞いていたようだ。驚いた様子はない。
「こんなとこで待ってないで、中に入っていればよかったのに……」
「いいえ、ムルカさんが不在なのに勝手に待つのは失礼かと思いまして……。それに、この森が綺麗で……」
　史和は森を見上げる。そして、スケッチブックを閉じてリュックの中にしまう。
「私も、こうしているのは嫌いじゃないですから」
　梨架は濡れた脚をタオルで拭きながら言う。
「まあ、それならいいけどな。そろそろ陽も暮れるだろう、中に入ってくれ。是非とも二つの国の感想が聞きたい」
　そう言いながらムルカは二人を迎え入れた。二人は、わかりました、と答えて小屋の中に入った。
　小屋の中では、相変わらず粉挽きの機械がガコンガコンと動いていた。
　何度見ても見とれてしまう。
　最初に入った時は機械に見とれてしまって気付かなかったが、他にも部屋があったようでムルカはそこに二人を案内した。
　二人を椅子に座らせると、ムルカは甘い匂いのする飲み物を二人に出した。
「それは、この辺で採れる果物を甘く煮出したもので、冷やして飲むと絶品なんだ」
　二人が不思議そうな顔で見ていたので説明してくれた。
「まあ、毒なんぞ入ってないから、安心して……騙されたと思って飲んでみるといい」
　そう言いながら、ムルカはそれを飲む。
　史和と梨架は一度互いの顔を見て頷き口にした。
　どんな味なのかわからず、恐る恐る少しだけ口に含む。
「「…………………………」」
　飲んだ瞬間、二人は無言になって固まってしまった。
「……どうしたんだ？」
　ムルカは不思議そうに二人を見る。
「…………大丈夫か？」
　あまりに反応がないので心配になってくる。
「………………………………美味しい」
　梨架がようやく言葉を発した。
　ほんのりと酸味があって、それが甘さを際立たせている。だからといって甘すぎず、喉を通り過ぎると爽やかな後味が残る。――そんな飲み物だった。
　身体が自然に欲してしまう感じがして、無言で一気に飲み干してしまう。
　それを見てムルカは妙に可笑しくなって笑う。
「どうやら気に入ったようだな。もう少し飲むか」
　そう言って、返事を待たず二人にお代わりを注ぐ。
　お礼を言って、今度はゆっくりと味わうように飲む。
　結局、三杯お代わりをしてしまった。
　ムルカは、自分を訪ねてきてくれた旅人にはこれを振る舞っている事を話してくれた。そして、両隣の国の感想を聞いている事も。
「さて、二人はあの国を訪れてどう感じたかな？」


「どういう風に話せばいいのか……」
　いざ話そうとしても、どう話していいものかわからない。
「思ったままを頼みます」
　そう言われた史和は、それでは……、と前置きして、
「最初の国は……そうですね…………」
　中空を見るような目でその情景を思い浮かべる。
「なんだか、のんびりとした感じがしました」
「それは私も感じました。穏やかな感じがして……。住んでいる人もなんだかのんびりしているように感じました」
　各々の感想を言う。
「なるほど……。のんびりした、か。今までの旅人もよく似た事を言っていた。わたしも行った事はあるが、確かにそういう感じはする。それで、次の国は？」
「そうですね……。対極といった感じでしょうか――」
　促されるように史和が話し始める。
「――こちらは、陽気で賑やかで……」
「騒がしい……と」
　意地悪げにムルカが言う。
「いえ、そういうわけでは…………」
　史和はなんとか弁明しようとするが言葉が出てこない。正直なところ、彼もそう思っている。
「ああ、気にする事はない。それは別に悪口にはならないですよ。あの国はそういう国だから」
「そう……ですか…………」
　史和はどうしていいのかわからない。
「私は、あの国はちょっと苦手です」
「おや、お嬢さんはそう感じたんですか？」
　梨架の言葉に興味を持ったのか、ムルカは少し身体を乗り出すようにして訊く。
「…………はい」
　それに少し驚きながらも頷く。
「苦手、とは……もう少し詳しく聞かせてもらえませんか」
「……わかりました」
　そう言ってから思った事を正直にムルカに話した。
　目の前で小羊を捌いた事。それが残酷に思えた事。楽しそうにそれを行っている様子は正視できるものではなかった事。食べる事が出来なかった事。――それらを吐き出すように話した。
「なるほど…………。確かに慣れない女性には酷なのかもしれませんな。だが、あなたも肉を食べるのでしょう？　菜食主義……というわけでもなさそうだし」
　ムルカは食事の様子を思い出しながら言う。
「……それはわかっています。私が自分でしないだけで、他の誰かがそういう事をしてくれているんだって……。それでも…………」
「まあ、無理なものは誰にでもある。で、あんたはどう思った？　騒がしいと思っただけかい？　それとも、彼女のように残酷だとも思ったかい？」
　ムルカは史和の目をじっと見る。
　じっと見られては無言でいるわけにもいかない。史和はゆっくりと口を開いた。
「そうですね。僕も残酷だとは思いました。しかし、それはあの国の人たちだけでなく、僕を含めた全てに対してです。あの行為が悪いとは思いません。仕方のない事なのだと……そう言い聞かせています。生命の輪廻だと」
「なるほど……」
　ムルカはそれを聞いて頷く。
「もちろん、それはきれい事だとも思っています。どこかで割り切らないといけませんから」
　それを聞いたムルカは、満足そうに何度も頷く。
「なるほどなるほど。なかなか面白い話が聞けました。生命の輪廻ですか……。そんな事を言ったのはあなたが初めてですよ。今までの旅人は、ただ残酷だ、野蛮だ……なんて、それこそ上辺だけの事を言ってきましたよ。自分は綺麗なんだ、とね。そう感じさせるようなものだった。だが、あなたたちは違ったようですね。自分たちの罪深さを知っている。わたしとしては満足です。あなたたちの話を聞く事ができてよかった」
　ムルカはにこやかに笑う。
「さて、お疲れでしょう。今夜はゆっくりとしていって下さい。明日にでもわたしたちの国を見ていってくれるといい」
　そう言うと、二人に休むように言い、客室の準備を始める。旅人を泊めるのは慣れているらしく、テキパキと支度をしていく。
「まあ、こんな場所だが、ゆっくり休んで下さい。それでは、Bonan nokton!」


「それでは、出掛けましょうか」
　朝食を終えた三人は水車小屋を出て、街へ向かって歩き出す。
　昨日も通った森を抜けると、木の柵で囲われた道に出る。昨日はいなかったが、今日はその柵の中に動物たちがいた。牛や馬、二人が見た事のない動物もいる。
「ここは……？」
　史和がムルカに訊く。
「ああ、昨日は昼過ぎだったから見ていないのか。……ここは、見ての通りの放牧場だよ」
「放牧場…………」
　史和は曖昧に頷く。
「まあ、一応我々が移動するための道のために仕切られてはいますが、ほとんど放牧状態ですよ。帰巣本能のようなもので自ら厩舎に帰っていくんです」
　なるほど……と、納得する。
「やっぱり、ここの動物たちもやがて殺されるんですか？」
　まだ前の国の事が頭から離れないのだろう、自然とそういう風に考えてしまう。
「そうですね」
　梨架の疑問をムルカは躊躇う事なく肯定する。
「やはり、生きるためには必要ですからね。もちろん、それだけのためでもないですけれどね。乳を搾ったり、荷車を牽いてもらったり……」
　それを聞いて梨架は少し安心し胸を撫で下ろす。
　そうこうしていると分かれ道にやって来た。昨日は入口から来て左に曲がったわけだから、今日は左折して昨日は行っていない方向に進んでいく。
　左手にはあの放牧場が拡がっていて、時折動物たちが顔を覗かせる。
　そんな動物たちと触れあいながら進むと、畑が拡がっていた。様々な作物を育てているらしい。それも今は花の時期らしく、様々な花を見る事ができた。
　史和はスケッチブックを取り出すと、その光景を描き始める。
「なるほど……彼は絵を描くんですね……」
　誰ともなしに言った独り言のようだったが、梨架は、はい、と答えた。
「本当にあんたたちは運がいい。この時期だけだからな、こんなに花が見れるのは……。他の時期だとちらほらとしか見れない」
「そうなんですか……」
　梨架がそれに答える。
「絵描きさんにはもってこいなのかもしれませんな」
　と、にかにかと笑いながら史和を見ている。
　梨架は見渡す限りに拡がる花を眺めていた。白や黄うっすらと赤い花が目を楽しませてくれる。どれもこれも可愛い花で、見ていて飽きない。
　小一時間、そうして花をただ眺めるだけの時間を過ごした。史和はその間に三枚のスケッチを描いていた。


　さらに歩くと、ようやく集落が見えてきた。
　太陽は頭上に輝いている。
　梨架は荷物から鍔の広い白い帽子を取り出し被る。白いワンピースと相まって涼しさを感じさせる。
　そんな梨架を描こうと思ったが、史和はやめておく事にした。
　集落に近付くにつれ、威勢のいい声が聞こえてくる。かなり活気があるようだ。
「なんだか賑やかな街ですね」
　梨架が感想を述べる。
「まあな。でも、そこがちょっと苦手でな……。だから、一人であそこに住んでるんだ」
　二人はなんとなくわかる気がした。
　賑やかな場所が嫌いというわけではない。だけど、ずっといたいと思うかは別だ。
「僕たちも同じです。こうして旅をしているので、賑やかな場所なんかにも行ったりします。たくさんの人とも接します。でも、やっぱりこうしてのんびりとしているのが――そういう時間が好きなんです」
　そう言って梨架の方を見る。
　梨架は笑みを浮かべて。
「私もそうです。二人でゆっくりと旅をしている――その事が好きなんです」
「なんだか、あてられてますかな……」
　ムルカはニヤニヤと笑う。
「そんなつもりは……」
　梨架は照れて真っ赤になりながら言い訳をしようとする。
「いやいや、そういう話を聞くのも好きなんですよ。さあ、もうすぐその賑やかな街ですよ」

　
　境目があるかのように、街へ入ると突然耳が痛いほどの声が聞こえた。
　今までも聞こえていたのである程度の覚悟はあったものの、自分がその場所に立つと全然違うという事を思い知らされた。
「この国はな、他の国との交易を主にしておるんだ。作物や食肉――それらの加工品なんかのな」
　ムルカはそう説明してくれた。
「ちなみに、加工品はこの街を越えた向こうに作業場があるんだ」
　そう言って遠くを指す。
　梨架と史和は、ふむふむとその説明を聞いている。
　しかし――と、史和は疑問に思った事がある。
「でも、隣の国はそれぞれ自給自足で成り立っていませんか？」
　そうなのだ。二人が訪れた二つの国は、それぞれの国だけで成り立っているように思えた。
「確かに、あの国は他の国の介入をよく思っていない。自分たちの理念で生活しているんだよ。だから、この国はもっと遠くの別の国と交易をしているんだ。近くに国があるのに不便とは思うが、わたしたちはあの二つの国と違って閉じこもる事をよしとしない。むしろ、他国と交易を深めてよりよい国にしていきたいんだ」
　そう言うムルカの目は輝いていた。希望で満ち溢れているようだった。
　改めて街を見る。
　そこはまるで市場だった。活気がそう思わせる部分もあるが、様々な露店が立ち並んでいるというのも大きいだろう。
「うわぁ……これ、美味しそう……」
　梨架は果物を売っている露店の商品を興味深そうに見る。
「おや、ムルカの客かい？」
　露店のおばさんが梨架とムルカを見る。
「まあな」
「そうかい。なら、旅の人だね。どうだい、そければ一つ」
　そう言ってその橙色の果物を梨架に差し出す。
「えっと……お金を…………」
　史和は慌てて財布からお金を出そうとするが、
「ああ、いいって。これはあたしからの気持ちさね。……まあ、旅人さんの思い出にさ」
　おばさんはにこやかに笑うので、史和は笑顔でお礼を言う。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……」
　と、史和もそれを受け取る。見た目はオレンジに似ている。だけど、固い。皮がではなく、なんだかリンゴのような固さだ。
「お前さんたち、ドルキャオランゴを知らないのかい？」
　史和は、ええ、と頷く。
「それはな、そのまま丸かじりするんだよ。甘くて美味しいよ」
　史和と梨架は言われるままかぶりつく。
　シャクッといい音がする。そして次の瞬間、口の中に甘さが広がっていく。
「甘ぁい……」
　梨架は思わず感動の声をあげる。
　強烈でくどい甘さではなく、果物独特の甘さがとても美味しく感じられる。
「なるほど……」
　見た目はオレンジでそれでいて甘い……。だけど、程良い固さがある。
　食べてみて名前の意味がわかった。おそらくは自分が思っているとおりだろう……。
「どうだい？」
　おばさんは、二人の顔を見てにやにやと自慢そうにわかりきっているといった風にあえて訊く。
「……美味しいです」
　そう言う表情で訊かれると、あえてそう言いたくなかったのだが、悔しいかな、それ以外の言葉が出てこない。
　すると、その言葉を聞いたおばさんは、自慢そうに大声で笑った。
「ほれ、おみやげだ。旅の途中で食べな」
　そう言い、袋に入れたドルキャオランゴを強引に二人に持たせた。
「ありがとうございます」
　こんな美味しいものをもらって嫌なはずがない。嬉しくて、本当にもらっていいものか、遠慮してしまう。
「気にしなくていい。彼女は、いつもこれを旅人に食べさせて、あんたたちみたいな反応をした旅人には、いくつか持たせてるんだ」
　二人は何度もお礼を言ってそれを受け取った。


　ムルカもそうだが、類は友を呼ぶのか、旅人にはやけに親切に思える。
　普通ならそれを有り難く享受するのだが、やはり二人はその国民性からか、申しわけないような気になってくる。
　結局、昼食の支払いもムルカがした。
　金銭的には余裕のある旅なので、二人が払うと何度も言ったのだが、ムルカは頑としてゆずらなかったし、店の人もそういうムルカの行動がわかっているのか、二人からは受け取ろうとしなかった。
　そうされると、余計に申し訳ないような気になってくる。
　なにか恩返しをしたい。
　そう思うのは自然だった。
　しかし、旅人である二人にできる事はなにもないに等しい。
　唯一できる事といえば、史和の絵くらいのものだ。
　基本的にスケッチができる程度にしか画材を持っていないので、きちんとした絵を描くのは難しい。さすがに史和も、道具がなければなにもできない。
　かといって、用意してもらうというのは本末転倒のような気がする。
　散々考えた末に、色鉛筆画を描く事に決めた。これが、手持ちの道具でできる限界だった。
　しかし、それほど立派なものは無理なので、本当にスケッチブックの画用紙に描いて、色鉛筆で彩色するというものになってしまう。
　そうと決まれば早いもので、生い茂る牧草に座り込むと、史和は迷う事なく色鉛筆で描き始める。史和の場合、下書きはないので、塗りだけで表現していく。そのため、境界線がなく淡い感じに仕上がる。
　色を重ねたりして見事に色をつくっていく。それはさながら水彩画のようだ。
　相変わらずの早さなので、みるみる描き上がっていく。
　ムルカはそんな史和を興味深そうに見る。
「すごいですね…………」
　それは絵の出来に対してなのだろうか、それとも描く早さに対してなのだろうか……それはわからないが、ただ感心していた。
　梨架は史和の邪魔をしないように……とは思うものの、それでもやはり気になるので覗き込んでしまう。
（なんの絵を描いているのかな…………。これは…………）
　そこに描かれているのは、小さな小屋だった。そう――ムルカの水車小屋だ。
　画用紙には切り取られた空間と時間があった。
「よしっ」
　史和は手を止めた。どうやら完成したらしい。
「完成ですか」
「ええ。さすがに本格的……とまではいかないですけどね」
　ムルカはその絵に釘付けになってしまい言葉が出ない。
「こんなもので申し訳ないですけど、色々とお世話になったお礼です」
　史和はその絵を差し出す。
「………………」
　ムルカは、まさか自分へ……とは思っていなかったので少々面食らってしまう。
「これを……わたしに、ですか？」
　驚きのあまりたどたどしくなってしまうのはしょうがない。
「はい。本当なら、きちんとキャンバスに描きたかったんですけど……こんなものになってしまいました」
「こんなものだなんてとんでもない」
　ムルカの声は自然と大きくなる。その声に史和は驚く。
「……いや、すみません」
　ムルカ自身もそれには驚いたようで、小さく謝罪する。
「こんな素晴らしい絵を頂いて、不服なはずないじゃないですか」
　嬉しさからだろうか、ムルカの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
　ムルカは何度もお礼を言ってそれを受け取った。
「大切に飾らせてもらいます」
　史和は喜んでもらえてホッと胸を撫で下ろした。

「では、僕たちはそろそろ出発します」
　スケッチブックをしまい、出発の準備を整えた史和が言う。
「もう行くのかい？　もう一晩、ゆっくりしていったらどうだい？」
　別れの時は必ず訪れる。
　それは望む望まないにかかわらず。
　仕方のない事だとわかっていても、淋しく切ない。
「いえ……ありがたいですけど、そろそろ…………」
　史和は梨架を見る。梨架は名残惜しそうにしているが、どうしてももう少しここにいたいというわけでもないようだ。
「色々な世界を旅するのが私たちですから」
「なるほど……新しい世界があんたらを待っている、というわけかい。それもいいだろう。また、この辺に来る事があれば寄ってくれ。歓迎するぞ」
　その言葉は本当に嬉しかった。
「また、ここに来る事があれば必ず寄らせてもらいます」
　史和はそう言ったが、またここに来れるという保証はない。むしろ、二度と来れない可能性の方が高い。それでも、また来れると信じたい気持ちでいっぱいだった。


　――ボーン！　ボーン！　…………！

　お城の時計が大きく鳴り響く。
　カチリと時計の針が進んだ。

―終わりなき国～造り続ける話～―



　ガコガコと揺れるトラックの助手席の窓からは気持ちのいい風が吹き込んでくる。
　バサバサと広がる髪を手で押さえながら梨架は窓の外に目をやる。
　荒野が広がるこの光景はこの国では珍しくない。
　作物が育ちにくい環境下にあるが、人々は自分たちを不幸だとは思っていなかった。
　それは――
「そろそろ見えてくるぜ」
　言われて見ると、遠くに工場のようなものが見えた。

　途中、荒野を歩いていた二人は通りがかったトラックに乗せてもらえる事になった。
　特に向かう方向が決まっていたわけでもないので、遠慮なく乗せてもらう事にした。正直、この荒野を歩き続けるのには限界がきていた。
　運転手のスティッカ・スパースティンが言うには、この国は工業で収益を得ているらしい。
　旅をしている事を告げると、一緒に来ればいいと言い、自分はこの国の製品の運搬役であるため、色々な箇所を見る事ができるというのだ。
　それは二人にとって願ってもない事だ。
「ところで、ここではなにを製造しているんですか？」
「それはな……あんたたちが知ってるかはわからんが、俺が担当しているのは光学式画像音声受信機って機械なんだ」
　史和の問いにさらりと答える。
「光学……？　なんでしょう？」
　梨架が首を傾げる。
「わかりません。でも、言葉からするに…………」
　史和もよくわからない。言葉からなんとなく想像できるが、どうにも確信が持てない。
「近くでは、画像音声記録器や、携帯式画像音声記録器や、電波式音声受信機とか、携帯式画像記録器なんかも造ってるな…………って、わからないのか？」
　スティッカは不思議そうに二人を見る。
「旅人さんの国にはそういうもんはないのか？」
　そう言われても、どういったものなのかわからないので答えようがない。
「すみません。ちょっとどういうものがわからないのですが、もしかしたら僕たちの世界にも……」
　そう言い、史和はスケッチブックに思い浮かべたそれを描く。それはいわゆるテレビだった。
　それを見たスティッカは、これですこれです、と嬉しそうに頷いた。
「……これが、光学式……えっと…………」
　梨架は言葉が思い浮かばず、助けを求めるように史和を見る。
「光学式画像音声受信機。……いわゆるテレビジョンだったみたいですね」
　史和はにこりと笑った。
　そして車は工場に到着した。


　工場に到着すると、早速スティッカは荷物を下ろし始めた。ガチャガチャと音がするところからするに部品の類だろう。一人で抱えられるくらいの箱にぎっしり詰まったそれらは、とても重そうに思えた。
　史和と梨架は手伝おうとしたが、スティッカがそれを拒んだ。
　それに史和は少しホッとしていた。
　言ってしまったものの、自分には到底できそうになかったからだ。左腕が不自由な史和に、その仕事は不可能に近いと思われる。
　そんな事はわかっているつもりなのだが、どうしてもこういう場面ではそう言ってしまう。
　仕方ないので、二人はスティッカの作業が終わるのを黙ってみているしかなかった。
　スティッカは慣れたもので、テキパキと作業をこなしていく。
　見ているだけという手持ち無沙汰な時間も、スティッカの作業がスムーズなため意外と短かった。
「じゃあ、案内しましょうかね」
　そう言うと、返答を待たずに歩き出した。
「ああ、仕事なら気にしないでいいっすよ。積み込みまで時間あるんだ。だから、時間まで暇つぶしがてらの案内になっちまうけど」
「ありがとうございます」
　梨架はお礼を言って、慌ててスティッカに追いつこうと駆け寄る。
（どんな場所か楽しみだな）
　史和もおいていかれないように駆け寄った。

　工場は流れ作業になっているようで、ベルトコンベアの両脇には大勢の人が並び、それぞれッ決められた作業をしている。
　監督のような人の姿は見受けられない。
　その事を訊くと、
「みんな、仕事ができるってのが幸せなんだ。それをわざわざ手放すヤツなんているか？　まあ、いたとしてもそいつの勝手だ。自分から幸せを放棄しようなんてのは、莫迦だと思わないか？」
　と、答えられた。
　なるほど…………と、史和は感心した。
　仕事を任せられているという事は、認められているという事であり、必要とされているという事なのだ。それは、世界に必要とされている事と同義なのだ。
　そういう気持ちは、史和と梨架には痛いほど理解できる。それぞれが必要だと感じている今だからこそ、その幸せを知る事ができたのだ。
　作業をしている人たちは、それぞれ幸せそうな顔をしている。
　苦痛に思う事もあるだろうが、その中にも幸せを見出しているのだろう。
　その光景を見ながら、順番に歩いていく。徐々に組み立てられていくその様子は、少し不思議なものがある。
　そんな事を梨架に言うと、史和さんの絵も似たような感じですよ、と苦笑気味に言われた。
　確かに、彼女にすれば真っ白なものから浮かび上がるようにして絵が現れるのは不思議なものだろう。史和自身は頭の中で既に出来上がっているのでそれを感じないだけなのだ。
　案内というわりには、ただ歩いているだけだったりする。それでも、充分に面白い。こういうものを目の前で見るのは初めてなのだから。

　一周すると、作業服を着た人たちが出来上がり梱包されたものをトラックに積んでいるところだった。
「おっと、もうそんな時間か……」
　スティッカは慌ててトラックに駆け寄る。
「今日はこんだけだ」
「了解」
　と、言葉を交わしなにかを書類に書き込む。
「さてと、そろそろ行かないといけないんだ。早く乗ってくれ」
　スティッカに促され、二人は慌ててトラックに乗り込んだ。
「じゃあ、次の場所にこれを届けないとな！」
　そう言うと、アクセルを踏み込んだ。
　トラックは次の目的地を目指して走りだした。

―終わりなき国～解体し続ける話～―



　また、ガコガコと荒野を走る。
　梱包された荷物を積んだトラックは、次の場所を目指して走っていく。
　しかし、向かうのは倉庫ではなく、別の工場だというのだ。
　どんな場所なのか訊いたが、それ以上は教えてくれなかった。着いてからのお楽しみらしい。
　普通に考えればその工場でも製品を積み込む――となるのだろうが、そうではないからこういう態度なのだろう。それとも、部品でも積み込むのだろうか。
　疑問は膨れ上がるばかりだ。このままでは頭から煙が出そうな感じだ。
　どのみち、もうすぐ着くのだ。もうすぐわかる。なら、これ以上考えてもしょうがない。
　史和は気分転換をするように窓の外を見る。
　しかし、別段なにか見えるわけでもない。ただ荒野が続いているだけだ。強いて言えば轍が見えるだけなので、史和は自然と空を見上げるようになる。もちろん、荒野も見ていて面白いのだが、今は空を見たい気分なのだ。
　かといって、空は空で特に動きがない。凪いでいる状態なので雲も動きがない。
　なんだか、景色が止まって自分たちだけが動いているような気にさえなる。
　殺風景な景色を見ながら、黙って到着を待つしかなかった。

　しばらく――といっても、三十分は走っただろうか、ようやく次の目的地に到着した。
　ガコガコと揺れる車内は決して快適というわけではなく、変わり映えのしない景色を見ているのも退屈しか感じない。
　ようやく到着したという事で、妙に嬉しく感じてしまうのも仕方ないだろう。
「やっと到着か…………」
　トラックから降りた史和は、大きく伸びをする。
　それがとても気持ちよさそうで、梨架もそれに倣うように伸びをした。
　そんな二人の行動が可笑しく、スティッカは思わず笑ってしまう。
　史和と梨架は赤面してしまう。
　スティッカは、つい笑ってしまった事を詫びつつ、荷台に積んであった荷物を下ろし始める。
「…………えっ？」
　史和は思わず声に出してしまった。
　スティッカが下ろしているそれは、さっきの工場で積んだものだったからだ。
「それって…………」
「これでいいんだって」
　史和の言葉遮るように言い、スティッカは作業を続ける。


　結局、前の工場で積んだ荷物は全部下ろされた。荷台は空っぽだ。
　いったいどういう事なのか、全く理解できない。
　ここは倉庫ではないと言っていた。工場なのだ、と。
　前の工場で、梱包まできちんとされている。普通なら、このまま出荷するなりすればいいだろう。
　この完成品を、これ以上どうするというのだろうか。
　着いてからのお楽しみ……というわりには教えてくれない。もちろん、作業が優先だという事はわかっているが。
「さて……と。これで、とりあえずの仕事は終わりだ。今日はここに泊まりだから」
　そう言って、スタスタと歩いていく。
「どこに行くんですか」
　史和が訊きながらも慌てて追いかける。
「なぁに、宿舎さ。トラックの中で寝たいか？」
　ニタニタと笑いながら振り返りもせず、足を止める事もせず歩いていく。
　仕方なく二人は小走りで追いかけた。

　案内されたのは、前の工場と同じ様な施設だった。ベルトコンベアの両脇には大勢の人が並んでいる。
　ただ、一つだけ違ったのは、流れているのは完成された製品だという点だ。そこに流されているのは、前の工場で組み立てられたもののようだ。
「え、これって……」
　梨架は思わず声に出す。
「ああ、これはさっきのとこで組んだヤツさ」
　スティッカは、なんでもないという風に言ってのける。
　そんな説明を受けている間も、作業は進められており、組み立てられたはずのものが次々に分解されていく。
「どういう事ですか？」
　史和も疑問を口にしたくなる。
　何故、わざわざ組み立てられたものを解体していくのだろうか。
「これが、この工場の仕事だからさ」
「どうして……」
「そうだな。ちゃんと説明しないとな」
　そう前置きして、スティッカが話し始めた。
「この国は、こうやって仕事を作ってるんだ」
「仕事を作る？」
　復唱するように史和が呟く。
「そう。仕事が全くないヤツらが集まった国だからな、どうしても仕事を作らないといけなかった。そこで考えられたのがこれだ」
　そう言って、目の前の作業に目を向ける。
「製品の循環だ」
　製品の循環。つまり、同じ製品を組み立てたり分解したり……また組み立てたり……という事なのだろう。なんとなく想像はできる。だけど……どうしてそんな……。
「言っておくが、全部が全部じゃないぜ。そのまま出荷していくものもある。ここに集められたのは、どこか不具合があるかもしれない。きちんと組まれていない……。ちょっと雑なものとかだ。きちんと完璧なヤツは、出荷されてるわけだ」
「つまり、これは不良品……ですか？」
「そうでもないんだけどな。とりあえずそう思ってもらってもいいぜ。それを分解して、部品に戻してまたさっきのとこに持っていって組み立てる。それで、完璧なものは出荷して売る。その利益が俺たちに入ってくる」
　聞く限りは合理的な気もしなくはないが、絶対的に理解できない。
「ここで働く人たちは、その事を……」
「知ってるかって？　そりゃ、知ってるヤツもいるだろうし、知らないヤツもいるだろうな。でもな、俺たちは働けるだけでいいんだよ、前にも言ったと思うけどな。だから、それ以外はこだわらない。だからこそ成り立っているんだよ」
　ちなみに――と、付け加えて、
「ここの製品は良質だって評判で、かなり高価なんだが同じくらい人気もあってな。俺たちの安い給金には困らないってわけだ」
　と、最後の方は少し自虐的に言う。
「もちろん、ここだけじゃなくて他の工場でも似たような事をしてるぜ。他には、新しい部品を造ってる工場もあるけどな。とにかく、俺たちは同じものをこねくり回してるってわけだ。で、俺たちはそれに満足してる。製品を買った客も不良品知らずに満足してる。国も高収入で満足してる。な、みんな満足してるんだから構わないんだよ」
　それでいいのだろうか……。
　だけど、この国はこうして成り立っている。国民も満足している。
　ならば、旅人である史和と梨架が言う事はなにもない。
　こういう国なんだ、と納得するしかない。
　だから、それでいい。
　ここはこれでいい国なのかもしれない。

―仮面の国―



〝ここより先はいかなる国家にも属さない独立地帯である〟

　そんな看板が史和と梨架の前に立っている。薄暗い森のその出口付近にそれがあった。
「どういう事でしょう……？」
「わかりません」
　二人は首を傾げる。が、ここで突っ立っていても仕方ない。とりあえず進むしかない。
　不思議に思いながらも進むと、森の出口と思しき場所に小屋が建っていた。
　道の先には、国の入口と思われるものが見える。
　二人は小屋を無視して、そのまま進んでいった。
　背の高い草に覆われた場所の真ん中を無理矢理道にしたようなこの道は、両脇からなにかが飛び出してきそうで怖い。
　梨架は史和の腕にしがみつくようにして左側を歩いている。しがみつかれている史和は、嫌そうな素振りはみせず、むしろ護るようにして歩いている。
「おい――」
　その時、突然声を掛けられた。二人は思わず跳び上がりそうになる。
「――出ていけ！」
　きつい言葉を浴びせかけられる。しかし、声の主がどこにいるのかわからない。
「ここより立ち去れ！」
　見えないという事は、思うよりも恐怖を感じさせる。
「富所さん……」
　見ると、梨架は泣きながら史和の袖を引っ張っている。
「久門さん、戻りましょう」
　史和はできるだけ優しく言うと、そのまま踵を返して元来た道を戻った。


　結局、二人は森の出口にある小屋の前まで戻ってきた。
　相変わらず、あの声がどこから聞こえたのかわからない。
　梨架はまだ目を赤く腫らして史和の腕にぎゅっとしがみついている。
「大丈夫ですか」
　史和は優しく声を掛ける。それしかできない事がなんだか情けないような気がする。それでも、できないならできないなりに、できるだけの事をするしかない。
「ありがとうございます」
　梨架はゆっくりと史和を見上げる。
　真っ赤な目を見て史和は胸が痛んだ。
（僕は、彼女の安らぎにはなれないのか……）
　梨架が感じた恐怖を和らげてあげられないもどかしさ。護ってあげられない弱さ。……今の自分はその程度でしかないのか……。
「お前らか、入国規則を守らずに近付いた大莫迦ものどもは」
　突然の嗄れたその声に二人は心臓が止まるかと思った。そこにいたのは、禿頭の老人だった。
「まあ、どうでもええわ。とっととこっちゃ入れ」
　茫然としている二人を小屋の中に招き入れる。
　史和と梨架は、どうしていいものか顔を見合わせる。
「ほれ、早う入ってこんかい」
　老人はなおも急かす。
　何度も急かされ、ゆっくりとした足取りで中に入っていく。
「「………………っ！」」
　中に入った二人は、同時に言葉をのんだ。
　大きくない小屋の中の一面に仮面が飾られてあった。壁はもとより、天井にも飾られている。
　その目が二人を凝視しているようで不気味だ。
　梨架は史和の腕にギュッとしがみつく。
　史和は少しでも恐怖を和らげてあげようと梨架の肩を優しく抱く。
　それに安心したのか、梨架は笑顔をみせる。
「ほれ、ぼけっと突っ立っとらんと、さっさとこっちゃに来い！」
　部屋の奥に置かれたカウンターの向こうに、さきほどの老人が座っている。
　その近くには大量の木屑が散らばっている。彫るための道具や、作りかけと思われる仮面。彩色途中の仮面などが一見無造作に置かれている。どうやら、そこで仮面を作っているらしい。
　しかし、それにしてもこの大量の仮面はなんだろう。
「あの…………」
　史和が訊こうとしたが、
「で、お前さんたちはどれにするんだ？」
　と、訊いてきた。
　当然ながら、二人には質問の意図がサッパリだ。
「お前ら、本当になんも知らんで来たのか…………阿呆じゃな」
　と、無言でいると身も蓋もない事を言われる。だが、その通りなので言われるがままだ。実際、この国のルールを知らない。
「まあ、んなこたぁどうでもええ。さっさと仮面を決めてくれ」
　と、突然そう言われても意味がわからないので答えようがない。二人は顔を見合わせて首を傾げるばかりだ。
「仮面じゃ、仮面。それと、名前も決めてくれや」
　二人が黙っていると、老人はなおも急かしてくる。しかも、名前を決めろ……？　ますます理解できない。
「とにかく、あの国へ入りたいんじゃろ？　だったら、さっさと仮面を選んでくれんか。こちとらお前さんらばかりを相手にしてるほど暇でもないんでな」
　そう言うが、他になにかありそうには思えない。
　しかし言葉にする事はできず、とりあえず言われるままに仮面を選ぶ事にした。
「それにしても…………」
　史和は室内を見回す。改めて見ても圧倒的で、やはりどこか恐怖を感じる。
　とりあえず、近くにあった鳥の顔を模したような嘴があるものを手に取る。目の所は刳り貫かれているが、全体が赤を基調に塗られており、まるで血を浴びたようにも見える。
　その隣には平坦ながらも左右非対称な表情の奇妙な青い仮面あり、梨架はそれを手に取った。
「綺麗な青…………」
　その仮面の深い青は、吸い込まれるようでもあり、力強さも感じられる。アクセントのように白い飛沫のような点が飛び散っている。まるで波飛沫を仮面に閉じ込めたかのようだ。
　磁石のように梨架はそれに惹きつけられる。どうしても目がそらせない。
「ほぅ……嬢ちゃんはそれかい。で、そっちのガキんちょはそれでええんか？」
「いえ…………」
　史和は持っていたそれをまた掛け直す。
「そうかい。んじゃ、さっさと決めてくれ」
　面倒くさそうにそう言うと、老人は作業途中の仮面を彫り始めた。
　それにしても、仮面を選ぶ理由がいまだにわからないのが気持ち悪いが、どうしても選ばなければあの国へ入る事もできないようなので、ここは選ばなければならない。
　どれにしようか……。
　こうもあると目移りしてしまう。
　どれもこれも素晴らしい出来なのだ。
　部屋を壁から天井から見回す。どれも同じものじゃない。似ているものはあるが、やはりどこかで決定的に違う。
　ついつい目移りしてしまう。
「そっちの嬢ちゃんは決まっとるようだし、名前を決めてくれ」
　老人は仮面選びに手間取っている史和を無視し、梨架に次に名前を決めるように促す。
　しかし、当の梨架にはその声は届いていなかった。ずっと仮面に釘付けで、周りの音は聞こえていない。
「ったく……。今回のヤツは面倒なヤツじゃなぁ。決まったら声掛けろ」
　そう言い棄てると、老人は作業の続きを始めた。


　それならば……と、史和は開き直ってゆっくりと仮面を選ぶ事にした。どのみち、すぐに決める事ができそうにない。
　顔全体を覆うお面のようなものから、目だけを隠すようなもの。フルフェイスのヘルメットのようになったようなものまで様々だ。
　弥が上にも目移りしてしまう。
　久門さん……と、声を掛けようにも、梨架はずっとあの仮面を見ている。
　あの仮面は僕もつけてみたいかな……。
　でも、そうするとあの青を見れないのか……。
　ちょっとしたジレンマだな。
　やはり、あれを久門さんにつけてもらって、僕はそれを見る…………いやいや、なにを考えているんだ。
　史和はブンブンと頭を振る。
　これなんてどうかな……。
　そう思って史和が手に取ったのは、顔の右半分だけを覆うような真っ黒な仮面で、人の横顔のような形をしたものだった。
　騙し絵なんかではよく見るけど、こうして仮面になるとちょっと新鮮かもな……。自分の顔で騙し絵を再現か……。
　と、苦笑しながらその仮面を元の場所に掛け直す。

　あれもいいこれもいいと悩んでから、かれこれ三時間は経つだろうか。
　それでも全部の仮面を見終えていない。
　数が多いという事もあるが、史和は一つ一つを丁寧に見るので余計に時間が掛かる。長いもので十分ほど見ている事もある。
　その間も梨架はずっとあの仮面を見ている。
　最初の頃は急かしていた老人だったが、今ではなにも言わずに自分の作業をしている。
「これにしよう」
　それだけの時間を要してようやく決めたのは、ピエロのような仮面の横にあった、蜥蜴を模した緑色の仮面だった。
「ようやっと決まったんか」
　やれやれと辟易して老人が立ち上がった。
「なるほど……これにしたか」
　老人は史和の手から仮面を取り上げると、嬉しそうにそれを眺める。なにか思い入れでもあるのだろうか。しかし、史和にわかるはずもない。
「さて、二人とも決まったようじゃし、次は名前を決めてもらおうかのぅ」
　そう言って、なんとなくこの場には相応しくないものを持ってきた。それは、テレビ画面に文字を入力するためと思われる端末がコードで繋げられたものだった。
　こんなものは今まで見た事のない史和は、興味津々でその機械を見る。
「なんじゃ、お前さんらはコムプティーロを知らんのか」
　それに気付いた梨架もあの青い仮面を手にその機械に近付いて、興味深そうにそれを覗き込む。
「どうやら本当に知らんようじゃの。……まあ、そんな輩もたまにおるから今さらじゃがな」
　そう言っているが、どうも口調が得意気だ。
「これは……どういうものなんですか？」
　好奇心を抑えられない史和が訊く。
「…………いや、なんだ。わしも原理はよぅわからん。とにかく、これは名前を入力してもらうもんなんじゃ。この中には、この先の国にいるもん全員の名前が記録されとってな、これで管理しとるんじゃ。ほれ、お前さんたちもさっさと名前を入れんか」
　よくわからないが、老人の勢いに負けるように史和は文字入力端末の入力ボタンに指を置く。……が、突然名前を決めろと言われてもなかなか思い浮かばない。やはり本名を入れる方がいいのだろうか……。
「ああ、言っとらんかったかもしれんから言っとくが、本名はやめといた方がええぞ。偽名にしとけ」
　偽名か……。どうやら考えないといけないようだな……。
　と、史和が悩んでいると、
「私が先に決めてもいいですか？」
　と、梨架が訊いてきた。
　史和は、えっ、と驚いた表情で梨架を見る。
「も、もちろん……」
　そう言って、文字入力端末の前の場所を譲る。
「あの……これって、この文字が書かれている所を押せばいいんですよね」
　使い方を老人に訊ねると、老人は無言のまま頷いた。
「それでは……」
　梨架は入力したいボタンを探しながら、それでも名前は迷っていないようで、ぽちぽちと押していく。
　その押した文字がテレビ画面に表示されている。

〝ＴＩＡＮＡ〟

「ティアナ……」
　史和がぽつりと音にする。
「これでいいんですか？」
　入力し終え老人に訊くと、老人は、ちょっと待ちな……と言って、なにやら操作を始めた。
　しばらくして、
「これは大丈夫のようじゃな。他に誰も使っとらんようじゃ」
　どうやら同じ名前がないか調べていたようだ。
　そんな事がこんな簡単にできるなんて……この機械はすごい、と史和はしきりに感動していた。
　ボタンを押しただけで文字が表示されるという事にも感動したが、多くのものを簡単に検索できるという事も衝撃的だった。
「さて、それじゃ仮面を貸しなされ」
　そう言われて梨架は老人に仮面を渡す。
「ほれ、さっさと名前を決めるんじゃ！」
　じっと老人を見ていた史和を叱責する。
「は、はい……」
　言われて名前を入力しようとするが、なかなか思い浮かばない。
　それよりも老人が気になってそちらを見てしまう。
「…………っ」
　老人はあの綺麗な仮面になにかを彫っていた。
　勿体ない！　と叫んでしまいそうになりながらもなんとか抑える。
　冷静に考えて、それは名前なのだと気付いたが、やはりあの綺麗な仮面に……と思ってしまう。
　史和がそんな事を考えている間に、老人はその作業を終えて梨架に仮面を渡した。
　左頬の辺りにまるで最初からのデザインのように名前が彫られていた。違和感はなく、むしろお洒落になったように思える。
「お前はまだなのか……」
　散々待たされて、そろそろ呆れてきたのか、老人はどこか投げ遣りに言う。そろそろ匙を投げられても仕方ない。
「すぐに決めます」
　そう返事をして、史和は押すべき文字を探しながらも、できるだけ急いで押していく。
　そして画面に表示されたのは――

〝ＰＨＩ〟

「ありきたりじゃな」
　老人はその名前にケチをつけて、検索をし始める。
　しばらくして結果が出る。
「……やっぱりな。既に使われとるな」
「そうですか……」
　史和は少し気落ちして違う名前を考える。
　どうしたものか……。
　これと同じ流れでいっても使われているに違いない。あと二三種類……きっといるだろうな。
　じゃあどうしようか……。
　と、散々悩んで次に決めたのが――

〝ＦＡＺＥ〟

「ではちょっと待て」
　老人はその名前が登録されていないか検索をかける。
　そして結果は、
「どうやらこれは使われてないようじゃな。ほれ、仮面を貸せ」
　そう言いながら、老人はひったくるようにして史和の手から仮面を奪うと、黙々と名前を彫り始める。
　すぐに完成して、出来上がった仮面を史和に渡す。
　よくよく考えると、これは自分のためだけの仮面になったというわけだ。名前が彫られているので自分以外は使用できない。そういう意図なのだろう。
「とにかく、あんたらは今からティアナとフェイズじゃ。あの国ではその名前を名乗る事。仮面を決して外さない事。本当の自分を知られてはならんぞ。もし知られれば国外追放じゃ」
　その言葉に二人は恐怖のようなものを感じた。国外追放――強烈な響きが二人を貫く。
「そうそう、わしの名前はガギ・デジバじゃ。それじゃ、あの国を楽しんできれくれ」
　半ば追い出されるようにして二人は小屋を出た。
　どうやら、これで入国の条件を満たしたらしい。
　ようやく中に入れるのか……。
　と、期待もあったのだが、最初に行った時の印象が強すぎてその足取りは重かった。


　背の高い草に覆われた場所の真ん中を無理矢理道にしたような道を再び歩き、国の入口と思われる場所の前に立つ。
　と、今度は声はせず、ゆっくりと門が開いて中から人が出てきた。その人はやはり仮面をかぶっている。
「ようこそいらっしゃいました」
　ぺこりとお辞儀で出迎えられる。声からするに女性のようだ。
　二人はどうしていいのかわからず、ただお辞儀を返すばかりだ。
「それではこちらへどうぞ、フェイズ様、ティアナ様」
　その女性は二人の偽名を呼んでどこかへ案内しようとする。
　史和と梨架はどうして自分たちの名前がわかるのかと疑問に思ったが、すぐに仮面に名前が彫られている事に気付いた。
　謎が解けてしまうとなんだか莫迦らしくなる。
「どうぞ、こちらへ」
　催促された二人は足早に女性の元に向かった。

　案内された場所は、案内所のような場所だった。
　女性――名前をＭＥＥＲというらしい――と史和と梨架以外は誰もいないが、どことなく観光地の案内所を彷彿とさせる。
「まず、この国の説明をさせていただきます。ガギ様から少しは説明されているかもしれませんが、改めて」
　ミーアは丁寧な物腰で話し始める。
　もちろん素顔はわからないが、どことなく理知的な顔をしているのだろうと想像できる。
「最初に、この国ではお互いの素性を詮索する事は禁じられています。この国に来た目的はもちろん、本名や経歴なども訊いたり調べたりしてはいけません。教える事もしてはいけません。今までの自分を忘れ、一から新しい人生を過ごして下さい――」
　あの小屋でガギに少し言われたが、改めて考えるとすごい事のように思える。
　なにか理由があるのだろうが、どうしてこんな事になったのか興味がわく。もっとも、これも余計な詮索になってしまうと思われるので訊けないのだが。
「――当然ですが、本名を名乗る事もしないで下さい。ここでのあなた方のお名前はフェイズ様とティアナ様です。もちろん、私はあなた方の本名を知りませんし、素性も知りません。もとより、興味もありません」
　ミーアはそう言い切った。なんだか身も蓋もない。少し淋しい気もする。
「あの…………」
　遠慮がちに梨架――ティアナが言葉を挟む。
「なんですか？」
　責められているわけでも、尋問されているわけでもないのだが、どうも彼女の口調には強さを感じてしまう。
「あの……。もし、私たちの本名や素顔を知られたら……どうなるんでしょか」
　史和も同じ疑問をもっていた。自分たちに調べるつもりはなくても、知られてしまった時はどうするのだろう……と。こういう状況は初めてで、ついいつものように相手を呼んでしまいそうだ。そんな習性という不可抗力のようなもので知られてしまう可能性が高い。
「その場合は退国していただきます」
　ミーアは事も無げに言い切った。
「これは任意ではありません。強制です。それが、この国の規則であり規律なのです」
　大変な国に来てしまったかもしれない。それに、おそらくこの国にもなにか大きな事情があるのだろう。
「この国のもう一つの規則として、一度出国した者は二度と入国する事ができません。それと、外部との接触も禁止です」
　どうやら一度きりらしい。
　外部との接触が禁止という事は、完全に今までの生活とは切り離されるという事だ。
「その代わり……というわけではありませんが、滞在する期間に制限はありません。何日でも何ヶ月でも何年でも滞在する事ができます。求人もありますし、自分で開業して生計をたてる事が可能ですので、永住も可能です」
　だが、旅をしている二人には関係ない。少しの間ここで生活する事にはなるだろう。なので、当面の生活費があればいい。
「これでだいたいの説明は終わりです。細かな疑問が生活していく中であるかもしれません。わからない事などがありましたらここへ来て下さい。それと、この国は独自通貨を発行しています。両替やその他の案内はこの場所で私が行っています。さて、早速両替を行いますか？　もっとも、そうでないとこの国でなにもできませんが。ちなみに、１ステーロで２５謳華となります」
　どうやら、この〝謳華〟というのがこの国の通貨単位らしい。
「じゃあ、とりあえずこれだけを両替して下さい」
　わからないのならとりあえず実行してみるしかない。足りなければまた両替するだけの事だ。そう考えて、史和は１００００ステーロを出した。
「１００００ステーロですか。これだけあれば一ヶ月は普通に過ごせますよ。お泊まりになる場所にもよりますが」
　ミーアは少し驚いたようだったが、史和から受け取った１００００ステーロを、おそらくは両替をする機械なのだろう、壁に設置された機械に入れた。すると、２５枚の紙幣が出てきた。
「これが１００００謳華札です」
　そう言い、二人の目の前で枚数を確認する。確かに２５枚あった。
「先程も言いましたが、これらはこの国独自の通貨ですので、他では使用できません。お手持ちのステーロでは基本的にお買い物はできませんので、数ヶ所ここと同じ様な案内所が設けられておりますので、そこで両替をして下さい」
　そう言って、思い出したようにミーアが本のようなものを二人の前に置く。
「これはこの国の情報誌です。宿はもちろん、賃貸している部屋や分譲している住宅から飲食店やその他のお店、求人などほとんどの情報が掲載されています。もちろん地図もありますので、わからない事がありましたら目を通して下さい」
　そう言って、ミーアは分厚い冊子を史和に渡した。ちょっとした雑誌だ。
「ありがとうございます」
　とりあえずお礼を言って、二人は案内所を出た。


　二人は芸術家横町へとやって来た。
「すごい…………」
　道の両脇にはずらりと店がならんでいる。
　絵や壺を売っている店の隣にはアクセサリーの店、その隣には工芸品を売っている店、その隣にはまた絵を売っている店……と、脈略もなく並んでいる。
　しかし、それほど賑わっているというわけでもないようだ。人はまばらで、二人にすれば過ごしやすい。
「ちょっと見ていきませんか？」
　と、そう誘ったのは梨架だった。
　史和は店を見て回りたくてうずうずしていたので、まさに渡りに舟だった。もっとも、梨架がそれに気付いて言ったのだけれど。
　史和はふらふらと店先を見ながら楽しそうに歩いていく。
　ふとそんな史和の目に飛び込んできたのが刃物屋だった。金物屋ではなく、刃物屋。刃物だけを売っている。
「ちょっと、ここに入ってもいいですか？」
　史和は梨架に確認をとる。
　それは、梨架がこういうものが苦手なのを知っているからなのだが、そう訊かれたところで梨架には断れない。つい我慢してしまう。
「ちょっと、外で待っていてもいいですか？」
　だがやはり、刃物だらけの所には入れない。
「すみません。ちょっと、絵画用のナイフが欲しいので」
　と、言い訳をして店の中に入っていった。

　店の外で待つ事になった梨架だったが、このままじっと待っているのも退屈なので、近くの店を見て回る事にした。
　ふらふらと店を見る。やっぱり、絵や工芸品のお店が多いかな。向こうの方には洋服店らしい看板が見える。
「……ん？」
　ふと、お店とお店の間にテーブルだけを置いたお店があった。そこには、小さなマスコットが並べられている。
「いらっしゃい」
　にこやかな笑顔――仮面を被っているので表情はわからないけど、きっとそんな顔をしているに違いない――で女の子が話し掛けてきた。
　私と同じくらいか、年下か……。
　ピンク色の狐のような仮面がちょっと怖いけど、可愛くもある。
「可愛いですね」
　この子が作ったのだろうか。クマやウサギのまん丸いマスコットたちはとっても可愛い。
「あなたが作ったんですか？」
　そう言って、その子の仮面を見る。そこには、ＴＨＥＴＡと彫られている。
「ううん、これを作ったのはね……」
「俺です」
　と、男の子が歩いてきた。
　緑色の鳥のような仮面をしている。その仮面に彫られている名前は――ＰＨＩ。
　つい梨架は驚いた事を顔に出してしまった。
　それは、この人がファイという名前だったからなのだが、
「やっぱり驚かれますか。俺が作ったっていうと、たいていの人は驚くんですよね……」
　と、彼は少し自虐的に言う。
「あ、その……違うんです」
「別にフォローしてくれなくていいですよ」
「本当に違うんです。私と一緒に旅をしている人が、最初に決めようとした名前がファイだったので……それで…………」
　梨架の慌てぶりから本当の事なのだとわかった。
「そうですか。ついいつも言われているもので、どうしても勘ぐってしまうんです」
　と、とりあえずフォローを入れる。
「よければゆっくり見ていって下さい」
　梨架は、はい、と頷いて、遠慮なく見させてもらう事にした。
　その時――
「ティアナ！」
　と、史和の声が聞こえて、史和が入った刃物屋に視線を向ける。
「私、行かないと。また見させてもらいますね」
　そう言うなり、梨架は史和の所へ駆けていった。


「どうしたんですか？」
　心配そうな雰囲気で梨架が駆け寄ってきた。突然名前を呼ばれたのだ、もしかしたら一大事かもしれない。
「あ、あの……ですね」
　そんな様子で走ってくる梨架に、どう話を切りだしていいものか史和は悩んでしまう。
　別に言いづらい話というわけでもないのに、どうしてこんなに緊張しているのだろう……と、自分でも不思議に思う。
「……どうしたんですか？」
　そんな史和を見て、梨架は顔を覗き込むようにして訊く。そうされるとますます言いづらい。
「あ、あの、ですね…………」
　このままでは埒があかない。心を決めるしかない。
「実は、欲しいナイフがあるんです」
　と、史和は思い切って言ってみた。
　その唐突な言葉に梨架は唖然とする。
「それで……その、買ってもいいかな、って」
　なんだかそんな史和が可愛くて、思わずぷっと笑ってしまう。
「あ、あの…………」
　くすくすと笑う梨架にどうしていいのかたじろいでしまう。
「ご、ごめんなさい。なんだか可愛くて……あの……ごめんなさい」
　言い訳になっていない言い訳をしてしまい、失言してしまったな、と少し反省する。
「本当にごめんなさい。……それで、その、ナイフですよね。元々と…………じゃなかった、フェイズさんのお金なんですから、私に断りを入れなくても……」
　いけないいけない、と自分をたしなめる。まだ慣れていなくて、つい本名を言ってしまいそうになる。
「そんな事はないですよ。これは僕たち二人のものです。僕だけのものじゃ……」
「でも、フェイズさんが絵を描いてもらったものですから」
「そんな事は…………」
「なくはないですよね」
　と、梨架は思わず声を荒げて言ってしまった。
　なんだか一瞬だけ時間が止まったように感じた。
「…………とにかく、それはフェイズさんのお金なんですから、自由に使ったらいいじゃないですか」
　どうしてこんな言い方をしてしまったんだろう……。
　でも、言ってしまった言葉を戻す事はできない。
　届いてしまった言葉を取り消す事なんてできない。
　この場所にいるのがつらい。
　梨架は思わず駆け出してしまっていた。
（久門さん…………）
　差し伸べようとした手が中途半端で、どうしても伸ばしきれない。
　すぐに走り出せば追いつける。
　だけど、足が動かなかった。
　いいや、足だけじゃない。手も声も…………凍ってしまったみたいだった。心が冷たかった。


　どうしちゃったんだろう私……。
　どうしてあんな事を言っちゃったんだろう……。
　思い出すだけで恥ずかしくなる。
　きっと羨ましかったんだ。
　自分が足手まといみたいで……なんか、急にそう思っちゃったんだ。
　きっとそうだ。
　そうに違いない。
　ずっと走っていた足も、シータとファイの店の前に来るとぴたりと止まった。
　今、梨架が頼れるのはこの二人しかいない。
「どうしたんだ？　なんだか大きな声が聞こえたけど」
　ファイが無遠慮に訊いてくる。
　でも、その率直さがなんだか羨ましい。
「こら、ファイ！　女の子には優しく…………あ、でも、わたし以外にあんまり優しくされちゃうとなんだか嫉妬の炎がメラメラ…………でもでも、そんなファイも好き」
　と、シータは少し自己陶酔しながらたしなめる。
「シータ、黙ってろ。話が進まないし、お前の事はどうでもいい」
「そんあぁ。つれないなぁ。もしかして、照れてる？　ねぇ。このっこのっ」
　と、肘でつつきながら言う。
　そんな二人のやり取りを見ていると、なんだか笑いがこみ上げてきた。
　自分のイヤな気持ちを忘れる事ができるような気がした。
「あ、ティアナさんが笑った」
　表情はわからないのだが仕種で想像はつく。そう言っているシータも嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる。
「お前はちょっと落ち着け」
　ファイは呆れたようにため息を吐いて、肩をがしっと押さえつける。いつもなのだろう、扱い慣れているという感じがする。
　ついさっき初めて会ったばかりなのに、こんな風にしてもらえるのは嬉しい。
「ありがとうございます」
　梨架は深々と頭を下げてお礼を言う。
「そんなに畏まらなくてもいいじゃない。わたしたち、別になんもしてないし。そうだ――」
　そう言うと、シータは懐からピッコロを取り出した。
「即興曲、タイトルは元気が出る曲。作曲はシータちゃんでぇす」
　そう言うと、軽快にピッコロを奏でる。
　シータは体を揺らしながら、軽快に足踏みをしながら、身体全体でリズムを取りながらピッコロを演奏する。
　それを見ていると自然と身体が動いてくる。
　なんだかとっても楽しい気分になってくる。
　曲の力って、本当にすごいな……と思える。
「ほれ、これで文句ないっしょ」
　と、満足そうな顔でシータは演奏を終える。
「まあ、な」
　これにはファイはなにも言えない。確かに元気が出る。思わず自分もノってしまいそうになった。それはなんだか負けたような気がするので、必死に我慢した。
　梨架も元気が出たので、もちろん文句なんてない。
「まあ、初吹きにしては、結構上手くできたかな」
　と、信じられない事を梨架は耳にした。
「あの……初めて、なんですか？」
　梨架が口にした言葉にシータは、ん？　と首を傾げる。
「初めてって……うん、そうなんだよね……」
　と、うっとりとした表情でピッコロを見つめる。
「これね、さっきそこの楽器屋で買ったの。いつもはフルートなんだけど、ちょっと可愛かったから……」
　信じられない。
　初めて手にした楽器で、即興曲を演奏するなんて……。
「でも、初めてなのにそんなに吹けるなんて……」
「まあ、指使いは一緒だし」
　と、アッケラカンと答える。
　それで謎は一応解決した。
　でも、それでもすごい事に変わりないのだけれど……。


　梨架を捜して通りを歩いていた史和の耳に軽快な笛の音が届いた。
　聴いているだけで元気が出てくるようだ。
　思わずそちらに足が向く。
　ふらふらと音楽につられて歩いていくと、テーブルを並べただけの店が見えてきた。
　そこには――
「ティアナ」
　店の人だろうか、楽しそうに談笑しているティアナの姿があった。
　その姿を見て、少し胸がちくりとした。
　あんな笑顔はあまり見た事がない。
「あっ……」
　史和の声に気付いたのか、梨架が振り返ってその姿を見つける。
「フェイズ……」
　そう呼ばれた名前が自分のものだとわからないくらいに史和は戸惑っていた。
　それでも、にこやかな笑顔を作って梨架の所に歩んでいく。
　少しぎこちないが、きちんと笑顔になれていると思う。
　そう……きっと、またすぐいつものように笑える。
　そう信じて、ティアナ、と声を掛けようとしたその時――

「きゃぁぁっ！」

　どこからか悲鳴が響き渡る。
　史和はもとより、梨架と一緒にいた二人に緊張が走る。
　なにがあったんだ……。
　他の事は頭から消し飛んでいた。
　なにが起こったのか、それだけが支配している。
「ファイ」
「ああ」
　梨架と一緒にいた二人が茫然と突っ立っている史和の脇を走り抜けていく。
　周囲の店にいたひとたちと一緒に、その場に取り残される。
　今、世界で動いているのはあの二人だけなのではないかと思えてしまう。
　なにをしなければならない？
　僕がしなければならない事。
　しなければいけない事は――
「ティアナ」
　ようやく時間を取り戻した史和が梨架に駆け寄る。
（僕がしなければいけないのは、彼女の側にいる事だ）
　心の中で強く叫んだ。
　魂が抜けてしまったように立っている梨架を力強く抱きしめる。
　その温もりで梨架の時間も動き出す。
「ふ……フェイズ……」
　ようやく動いたはいいものの、なにが起こっているのかはわからない。
「そうだ、ファイさんとシータさんが……」
　状況を把握しつつある梨架は、二人が走っていった方を見る。
　そして、同じ方向へ走っていこうとする。
「ティアナ」
　史和は走っていこうとする梨架を強く抱きしめて止めようとする。
　史和はそこが危険だと感じていた。
　しかし、そこへ行かなければいけないとも感じていた。
　このまま見過ごしても構わない。
　だけど、それはできない。
　わかっているからこそ行けない。行かせたくない。
　それでも梨架は行こうと、史和の手を振りほどこうと藻掻いている。
「一人で行くのは危険です」
「でも……」
　止めても無駄だと訴えるような目で史和を見る。
「だから、僕も行きます」
　史和は優しい声でそう告げた。
「フェイズ…………」
「さあ、行きましょう。なにが起こっているのか、この目できちんと見ましょう」
「ありがとうございます」
　自然とそんな言葉が出てきた。


　ファイとシータの目の前には、黒い大きな影があった。
　三メートルはあるだろうその影は、細長い身体をしており、六本の脚が生えている。顔の部分には二つの大きな複眼があり、その近くからは触覚が生えている。
　その影は、広場に出店している店を我が物顔で破壊している。
　広場にいた人のほとんどは逃げてしまったらしく、今は逃げ遅れたのだろうか、数人が残っているだけだ。
　ベステートだ。
　その影はベステートに間違いなかった。
「シータ」
　ファイの言葉にシータは無言で頷くと、左手の白いオープンフィンガーグローブに指で六角形を描く。
「よろしくね、アーちゃん」
　シータはそう呟くと、その六角形に対角線を描く。
　その間にも、ファイは逃げ遅れた人を庇うようにベステートの前に立ちはだかる。
　そして、おもむろに手にしていた刀を鞘から抜いて、正面に構える。
　ベステート相手に鞘に入れたままで立ち向かう勇気はない。それは無謀に近い。
「早く逃げろ！」
　腰を抜かしている人たちや足が竦んで動けない人たちを一喝する。
　その声に背中を押されるように、動けなかった人たちがゆっくりとだが逃げ始める。
　それを確認すると、ファイはベステートを凝視する。
「シータ、そっちはどうだ」
　視線はベステートから外さずに声を掛ける。
「もうちょっと」
　シータの左手は光に包まれていた。
　それに反応したのか、ベステートはシータの方に向き直る。今まで目的もなく暴れていたが、シータを標的と定めたようだ。
「ちっ……こいつは、ちょっとは頭がいいようだな」
　ファイは舌打ちすると、今度はシータを護るように移動する。
「とにかく、まずは俺が相手だ」
　刀を上段に構えなおした。
　ちらりと一瞬だけシータの様子を確認すると、そのままベステートに向かって突っ込んでいった。


　史和と梨架が広場に着いたのは、ちょうどその時だった。
「あれは…………」
　梨架は両手を口に当てて、あんぐりとしている。
「やっぱり……」
　それに対して史和は、自分の予想通りだった事を確信し、それと同時にこの場所が危険だと判断した。
「ティアナ、隠れよう」
　史和は咄嗟に梨架を庇いながら建物の蔭に身を隠した。
　梨架は茫然としたまま二人を見ている。
「………………」
　言葉は出なかった。
　ただただ驚きだけだ。
（まさか、あの二人が遠野さんと京極さんだったなんて……）
　梨架は、以前に出会った自分たちと同じ時空の能力者の事を思い出していた。
　二人は自分たちと違い、明確な目的で旅をしていた。もちろん、自分たちにも目的はあるのだが、漠然としていて掴みきれていない。
　そう考えた時、ふと史和の言葉が頭をよぎった。
　驚きのあまり聞き逃しそうだったが、確かに史和は「やっぱり」と言っていた。
だとすると、気付いていたという事だ。
　自分は全然わからなかったのに…………。
「……あの…………フェイズ」
　梨架は史和の顔色を窺うように訊いた。
「なんですか？」
　史和はいつもと変わらなかった。それに少し安堵する。
「フェイズは気付いていたんですか？」
　端的な質問だったが、それで充分だった。
「あの刀を見て気付きました――」
　そう言われて、梨架はファイが持っている刀に目をやる。
　確かに言われてみればあの時のものと同じ様だが、正直なところ梨架にはよくわからない。言われなければ気付かないだろう。
（やっぱり、富所さんはよく見ているんだな……）
「――それに」
　と、史和は言葉を続ける。
「あの白い指ぬき手袋にも」
　シータのそれは、確かにあの時と同じだ。
　どうして気付かなかったんだろう。あの時も演奏を聴いたはずなのに……。
　見ると、シータはその白い指ぬき手袋を脱ごうとしていた。
　またあれが――アラネーオ（確かアーちゃんという愛称だった）が現れる。
「アラネーオの出現ですね」
　史和は一見冷静に見えた。しかし本人も気付いていないが、その手には力が込められており、掌が白くなっていた。


　ベステートに向かっていったファイは、とりあえず前の方の脚を目掛けて斬りつけた。
　が――
　それを読まれていたのか、咄嗟に判断したのか、ベステートは大きく跳躍した。
　そのせいで、ファイの攻撃はかすめる事すらできなかった。
「なんてヤツだよ……」
　最初の一太刀をかわされたのは初めてだ。少なからずのショックはある。
　跳躍したベステートは、シータの真上に移動していた。その背中からは翅のようなものが出ている。
「シータ！」
　攻撃が空振りに終わって、ファイは次の行動にうつれない。完全に出遅れてしまった。
　見ると、シータはそのオープンフィンガーグローブを脱いでいる。
（間に合うか……っていうか、間に合え）
　ファイは心の中で強く念じる。
「アーちゃん！」
　シータが叫ぶ。
　ベステートがシータに襲いかかるより一瞬早く、シータの左手から黒い影が飛び出した。
　その黒い影はそのままベステートをはじき返す。
　はじきかえされたベステートは、派手に店に突っ込んだ。
「ありがとう……アーちゃん」
　間一髪で難を逃れたシータの前には、大きな蜘蛛の姿をした影がいた。それこそがアラネーオだ。
　と、ホッとしたのも一瞬で、ベステートは翅を使って跳び上がると、再びアラネーオに向かって突っ込んだ。
　アラネーオは避ける事ができずに、直撃をくらってしまう。
「アーちゃん！」
　アラネーオに助けられるかたちになったシータが声を掛けるが、ひっくり返ってしまったアラネーオは上手く動く事ができない。
　その隙をつくかのように、今度はアラネーオの宿主であるシータを標的と定め、ベステートが跳び上がった。
　アラネーオに気を取られていたシータはその事に気付いていない。
「シータ！」
　体勢を立て直したファイが走り込み、ベステートの攻撃を刀で受ける。
「くっ……」
　身体がギシリと音を立てたようだ。
　ファイは受けるのが精一杯で、力を受け流すような余裕はない。
（このままじゃ、押し潰される……）
　ファイはガクリと膝をつく。
　今までにもベステートの攻撃を受けた事はあるが、これほど重かった事はない。それなりの衝撃はあったが、持ちこたえられないほどではなかった。
　しかし――
　今回はダメかもしれない。
　　シータは、今にも押し潰されそうなファイを見ているだけでなにもできない。いつもなら一緒に闘ってくれるアラネーオも動けない状態だ。
　絶体絶命という言葉が何度も脳裡をよぎる。
（なんとかしないと。なんとか…………。お願い――）
「――アーちゃん！」
　シータの叫びに応じるように、アラネーオはなんとか身体を転回させると、口から練り上げた粘糸を吐き出した。
　それはベステートに命中し、ベステートは後ろに飛び退いた。
「がっ！」
　その反動がファイを襲う。
　その衝撃に耐えきれずファイは、背中を地面に強く叩きつけられる。
　身体の中のものを全部吐き出しそうになる。
　背中を強く打ったせいで、うまく息が出来ない。
　そして――

　――パキッ！

　乾いた音をたて、ファイの刀が折れた。


　アラネーオの反撃を受けたベステートは、そのまま空間に姿をくらました。それを確認したシータは、アラネーオを封印する。
（ありがとう、アーちゃん）
　左手を優しく撫でると、再び白いオープンフィンガーグローブをはめる。
　あのベステートはなんだったんだろう……。
　今までとは違う――
　その事を痛感させられる結果となった。
　荒れた広場には、気を失って地面に倒れているファイと、愕然と膝をつくシータの姿があるだけだった。
　あまりの事に、史和と梨架もその場から動けなかった。
　本当なら、すぐにでも駆け寄って大丈夫なのかと言いたかったが、大丈夫でない事は痛いほどわかる。もちろん、命に関わる事はない。だが、精神的にかなりの衝撃を受けているという事をひしひしと感じる。
　それでも、いつまでもこうしていられるわけでもない。
　大きく深呼吸をして意を決すると、史和はゆっくりと二人の元に歩いていった。それを見て梨架も歩き出した。
　近付くにつれ、二人がまるで魂が抜けてしまったような状況にあるとわかってくる。
　ファイは完全に気を失っていて、シータも目が虚ろで視点が定まっていない。
「フェイズ、私ちょっと…………」
　そう言うと、梨架は水場を探す。広場には噴水があるが、さすがにそこの水は使えない。
　近くのお店の水を拝借してタオルを二枚濡らして戻ってくる。
　少しゆるく絞られているタオルをファイの額にのせる。
　そしてもう一枚のタオルでシータの顔を優しく拭く。シータは拭かれている事にも気付かず、ぼぅっとしたままだ。
　史和はしばらくそれを見ていたが、折れた刀を見つけそれを拾い上げる。柄の部分は、ファイが握っている。気を失っても手放さなかったようだ。
「折れてしまったんですね…………」
　ずしりと重い刀身は、やはり記憶の中にあるものとは違った。
　だが……。
　確かにあの時に見た刀はこれだった。
　鞘や柄は、確かに記憶のものと一致する。
　しかし、いくら見ても刀身は違うものだ。
　もっとも、よく考えれば同じものとは思わない。なにしろ、ここで折れてしまっているのだから。
　

　静かになったので、逃げていた人たちが戻り始める。
　皆が皆、目の前の惨状に声を失う。なかには嗚咽を漏らして泣く人もいた。
　しかし、ほとんどの店が全壊してしまっている。
　被害がない店は、この広場には存在していない。
　広場の中央の噴水も、今は虚しく水を吐き出しているだけだ。それはまるで、街の人の涙のようでもあった。
　戻ってきた人たちは同じように瓦礫を手に取り、壊れてしまった店を茫然と見ている。
　潰れてしまったそれは、元がどういうものだったのか全くわからない。
　自分たちの店の有り様に気を取られているのか、史和と梨架はもとより、ファイとシータの事は目に入っていない。
「ティアナ、ちょっと手伝ってくれませんか」
　史和はシータを介抱していた梨架を呼ぶ。
「どうしたんですか？」
　梨架はタオルを持ったまま史和に駆け寄る。
「彼女は大丈夫ですか？」
「……ええ」
　突然の質問に何故か戸惑ってしまう。
「できれば、彼をちゃんとした所で休ませてあげたいんですけど……彼女に、住んでいる場所まで案内してもらえないかと」
　言われて梨架は納得する。
　確かにこんな所に放置しておくわけにもいかない。
「そうですね……。シータさんに訊いてみます」
　そう言うと、梨架はシータの所に戻る。
「シータさん…………」
　梨架は茫然としたままのシータの頬をぱちぱちと軽く叩く。
「………………」
　シータはパチパチと目を瞬かせる。
「シータさん」
「…………ティアナ……さん…………？」
　まだ意識がはっきりとしていないようだが、なんとか梨架を認識できた。
「わたし…………あれ…………？」
　シータは状況がよくわからない。
「シータさん、ベステートは逃げたんです。もう大丈夫です」
　梨架が諭すように言う。
　それを聞いたシータは、心底安心したように全身の力が抜ける。
「ちょっと、シータさん…………」
　梨架は慌ててシータを抱き留める。
「…………ごめんなさい。なんだか、急に力が抜けちゃって…………」
　梨架に抱かれたまま、なんとかそれを口にする。
「シータさん。シータさんが住んでいる場所を教えていただけませんか」
　このままだとまた気を失ってしまいそうだと思った梨架は、唐突ながらも率直に訊いた。
「…………えっ？」
　シータは質問の意味がわからないのか、ぽかんと口を開ける。
「あ、ごめんなさい。あのですね、ファイさんが……」
　梨架はファイに視線を向ける。
「……ファイ？」
　シータもファイを見る。
　そして、ようやくファイの状況を知る。
「……ファイ！」
　シータはファイに駆け寄りたいがうまく力が入らない。気持ちばかりが先走って空回りしてしまう。
「ファイさんは大丈夫です。でも、ちゃんと手当てとかしないと…………」
「そうだよね。家に…………。わたし案内するから、ファイを連れてきてもらっていい？」
「もちろん」
　梨架は笑顔で頷いた。
「フェイズ、ファイさんの事お願いします」
　ファイの側にいる史和に言う。
「わかりました」
　それを受け、史和は気を失ったままのファイを背負う。
　ふらふらとした足取りで、史和は梨架とシータの元に歩いてくる。
「シータさん、案内お願いします」
「わかった」
　おぼつかないながらも、梨架に支えられてなんとか立ち上がる。
「じゃあ、行きましょうか」
　史和の声を合図に、四人は広場をあとにした。


「っ！」
　ファイがカッと目を見開いて飛び起きようとする……が、うまく身体が動かない。
　気持ちの上では飛び起きているつもりなのだが、身体が全くいうことをきかないのだ。
　ギシギシと油が切れた歯車や蝶番にでもなった気分だ。本当にそんな音をたてているのでは、とさえ思えてくる。
「ファイ……」
　シータはファイの目が覚めた事に思わず涙ぐむ。
　しかし、目が覚めた当の本人は、自分がおかれている状況がつかめない。
　確か今までベステートと闘っていた。そして…………。

　そうだ、負けたんだ。

　まったく歯が立たなかった。
　手も足も出なかった。
　それからどうなったんだ？
　記憶はそこまでしかない……。
　最後に残っているのは――
　そこでハッとなる。
　風伯はどうなった？
　ファイは慌てて自分の刀――風伯を探す。
　それは、ずっと手を握ってくれていたシータに気付かないほどだった。
「風伯は、風伯はどこだ？」
　ファイは必死の形相で部屋を見回す。
　誰かに向けられた言葉ではない。
　譫言のように――それしか言葉を知らないかのように、ただそれを繰り返す。
　そんなファイを見て、その場にいた全員の表情が曇る。
　だからこそ……ファイはその場の空気から全てを察した。

　夢じゃなかった…………と。

　途端に全身から力が抜ける。
　ベステートを捕獲するという目的のために預かった――実際は貰ったようなものだが、その大切な刀を折ってしまった。
　それはまるで、自分の半身を失うようなものだ。
「そう……か」
　ファイはそれだけを言うと、虚ろな目で天井を見上げている。
　もう、どうでもいい。
　力を失った自分になにができる？
　なにもできない。
　心歌を護るなんて……。いいや、心歌にはアラネーオがいる。あいつが護ってくれる。なら……俺がいる意味は？　俺が一緒にいる意味は？
　ただの足手まといじゃないのか？
　見ているしかできないんじゃないのか？
　心歌ばかりを危険な目に遭わせて、俺は遠くで見ているだけ。
　………………。
　…………。
　……。
　そんなファイを見ているたシータが顔を背けて涙をこぼす。
　見ているのが辛い。
　見たくない。
　みたくないよぉ！
　史和と梨架はそんな二人を見ている事ができずに部屋を出た。


　史和と梨架は、恐る恐るファイとシータの部屋のドアに手を掛ける。
　今まで、これほど重いドアはあっただろうか……。
　史和はゆっくりゆっくりドアを開ける。
　隙間から中を覗くと、無言で座っている二人が見えた。

　いざ部屋の中に入ったものの、この重い空気を払拭する事ができない。
　重苦しい沈黙が支配している。
「………………」
　史和はなにを言っていいのかわからない。それは梨架も同じで、所在なく立っているしかできない。
　ファイは魂が抜けてしまったように呆けているし、シータも掛ける言葉が見つからず俯いてしまっている。
　そうか――
　ふとある事に気付いた。
「ファイさん、この刀、もしかしたら直せるかもしれませんよ」
　その言葉に、ゆっくりとだがファイが史和を見る。
　梨架もシータもそれは名案だとばかりに頷く。どうしてそれに思い至らなかったのか不思議だ。
「…………直す？」
　だが、ファイは怪訝そうに史和を見ている。
「そうですよ。これをまた繋げてもらえば…………」
「…………それは無理だろうな。こいつを繋げるなんて、そんじょそこいらの刀鍛冶にはできないんだよ」
　苛立ちからか、ファイはどこか投げ遣りになっている。
「きっとあの人ならできますよ」
　しかし、史和にはそれができそうな人を知っている。
「誰ですか？」
　シータが訊く。彼女としても、風伯が元に戻るなら、これほど嬉しい事はない。
「ウォンカさんです」
　あの逆刃の剱。あれをうてるのだから、その腕前は申し分ない。
　梨架はその名前を聞いた事はないが、なんとなく想像がついた。あの刃物屋さんだろう、と。
「…………ウォンカ？」
　どうやらファイはその名前を知らないようで、シータに知っているかを訊くような視線を向ける。
「……ウォンカさん…………？」
　シータは腕を組んでしばらく考えるが、どうしてもわからない。
「芸術家横町にある刃物屋の……」
　史和が補足する。
「ああ、あの…………」
　と、それでようやくシータがわかった。
「お店には行った事ないけど…………。そうか、あそこならなんとかなるかもだね」
　一筋の光明が見えて、シータはいつもの明るさを取り戻す。
　が、
「…………刃物屋？」
　ファイは相変わらずわかっていなかった。
「そんなもん、あったのか？」
　と、どうやら存在すら知らない様子。
「もう…………。ホントにファイはご近所さんを知らないんだから……。あの横町にどんなお店があるのか知らないでしょ」
　シータが呆れた様子で、子どもを叱る母親のようにファイを叱る。
「あの店は臨時で最近出したばっかだし、そんなの……近所なんて知らなくても問題ないだろ」
「うっわ～。近所付き合いは大事だよ。大切なんだよ。重要なんだよ」
「うっせぇ！　何度も同じ様な事ばっか言うな」
「言わないとわからないからでしょ」
「お前は俺の母親かってんだ」
「……ガキ」
　シータがふてくされて吐き捨てた。
「お前もな」
　ファイは拗ねたようにそっぽを向く。
　そんな二人を見ていると、梨架は無性におかしくなってきた。
（いつもの二人に戻ったみたい）
　暗い空気が払拭されて、いつもの明るい空気に戻ったのが肌でわかる。
「まあ、なんでもいいけどよ。とにかくそこに行ってみようぜ」
　と、ファイは起き上がろうとするが――
「……っててて」
　接着剤で固められたのを無理矢理剥がしているような感じだ。メキメキっと音を立てて折れてしまいそうで、うまく起きあがれない。
「ちょっと……無茶しちゃダメだって」
　と、シータはたしなめながら優しくファイの身体をさする。
「ああ、悪い…………」
　ファイはゆっくりと身体を戻し横になる。
「とにかく、動けるようになってからだね…………」
「仕方ないか…………って、そんな事言ってられっか」
　勢いよくは起きあがれないという事は学習したらしく、今度はゆっくりと起き上がろうとする。
「……てててっ」
「こら、ファイ！　さっき無理だって言ったばっかじゃないの」
　シータは呆れたように言うが、ファイを止めようとはしない。
「ったく……。ホントに莫迦だ」
　呆れながらも、シータは笑顔だった。
　長い付き合いだ。これ以上なにを言っても無駄だ。だったら、見守っていてあげよう。
　それしかできないんだから――


　四人は芸術家横町にやって来た。
　二人の部屋からさほど遠くはないものの、それでも結構な時間を要した。
　ファイは両手が塞がっているので、風伯は梨架が持っていた。
　折れた刀身も鞘に入れているので、見た目にはただの木刀にしか見えない。
　そんな風伯を、梨架は少し重そうに持っている。実際、それなりに重い。
　人が多い場所に来ると、今の状況はかなり恥ずかしいと気付いた。ファイは顔を真っ赤にする。そして、できれば二人の手を振りほどきたいのだが、もしそんな事をしてしまうと、無様に倒れてしまう事は明白だ。そこまで莫迦じゃない。
　ファイは恥ずかしさを堪えつつ、一刻も早く着く事だけを考えていた。
　そうして、ようやく着いた時、ファイは大きくため息を吐いた。
　本当に元に戻るのだろうか……。なんだか緊張する。
「入りましょう」
　史和に促され、一歩店内に足を踏み入れる。
　梨架はしばらく逡巡したが――勇気を振り絞って店内に入る事にした。
　それに気付いた史和は、無理をさせてしまっているのでは……と、少し心が痛んだ。
　外で待っていて下さい――と言おうとしたが、それは逆に梨架に対して失礼になってしまうかも……と思うと口に出せない。
「無理はしないで下さいね」
　と、小さく言うだけで精一杯だった。
「ありがとうございます」
　梨架は笑みを作って返す。
　その笑みがなんだか辛かった。

　店内には相変わらず大量の刃物が飾られている。その物々しさは梨架でなくても竦んでしまう。
　ファイとシータも興味深そうに店内を見回していた。
　店主のウォンカは、前に来た時と同じ場所に座っていた。
「よう、あんたか。悪いがあのナイフはまだだぞ」
　史和の姿に気付いたウォンカが先に声を掛ける。
「あ、いえ……ちょっとそれとは別の用なんです」
　と、史和が言って、ようやくウォンカが他の三人に気付く。
「で、どういった用件だ？」
　ウォンカは二人に支えられているファイを不審な目で見る。
「ちょっと…………」
　と、カウンターまで歩いていき、カウンターにファイの身体を預けるようにする。
「これは僕のものではないんですけど……」
　そう前置きして、史和は梨架から風伯を受け取るとそれをカウンターに置く。
「木刀は専門外だが」
「わかっています」
　そう言って、史和は鞘から抜く。
　本当ならファイがするべきなのだが、今の状態ではできそうにないので史和が代わりにする事になった。
「………………」
　史和によって抜かれていく刀身を見てウォンカは言葉をのんだ。
（なんと綺麗な刀身だ……）
　思わずその美しさに見とれてしまっている自分に気付く。
　が――
　その刀身は途中で折れていた。
　史和は鞘を持ち上げると、残りの刀身を中から取り出した。
　それらをカウンターの上に並べる。
「もったいないな」
　それが風伯を見てウォンカが発した最初の言葉だった。
　それを聞いてファイはグサリと身体を貫かれるようだった。
　言われるまでもない。こんな風にしてしまった自分が一番わかっている。
　それを思うと、思わず涙が溢れそうになる。
（こんな状態で泣いてしまったら、俺ってメッチャ情けないヤツだよな……）
　そんな事を考えて、なんとか泣くことだけはさけられた。
「で、これをどうしろと？」
　言わなくてもわかっているだろうに、それでもウォンカは訊いてくる。
「あの……これを元通りにして欲しいんです」
「これは、あんたのか……」
　ウォンカはファイを値踏みするように見る。もっとも、やはり仮面のせいで表情まではわからないのだが、ウォンカはその下の表情までわかるように思えてくる。
「…………なるほどな」
　ウォンカは意味深に頷く。
「この先の広場になんか化け物が現れたとか言われてるが…………そいつと闘ったってのがあんたか」
　それは訊いたわけではなく、自分の中で確認したようだった。
「なるほどな…………」
　そう言ってもう一度頷くと、刀身に目をやる。
「この刀は素晴らしい業物だ。並の刀匠の業じゃない。それを、こんなにしちまうとはな…………」
　それは嫌味というわけではなく、ほんの小さな悪戯のようだと史和と梨架は思ったし、ウォンカもそのつもりなのだが、当のファイにしてみればこれ以上言われて痛い言葉はない。
「………………」
　なにも言えず、唇を噛む事しかできない。
「……まあ、化け物相手だって言うし、ある程度は仕方ないだろうな。それに、折れてしまったもんは折れてしまったわけだ。どう足掻いても、その事実は消えん」
「………………」
「それに――これを見る限り、あんたは人を一度も斬っていない。それは評価できる。手入れもいい」
　ウォンカの口調が優しくなる。
「これが折れてしまったのは、あんたのせいじゃない。きっと、誰が使っても折れていたと思うぞ」
　それは慰めにならない。
（きっと、心歌の親父さんなら……）
　そう、絶対に折るなんて事はしなかっただろう。
　それを思うと、せっかくこれをくれたのに、恩を仇で返してしまったみたいだ。
「さて、感想なんてどうでもいいわけだ。これを元通りに繋げる……だったな」
　そう言ってファイを見据える。
「……はい」
　ファイも真剣な目で見返す。
「………………」
　ウォンカはしばらく考えた末、結論を告げた。
「諦めろ」
「「「「………………」」」」
　四人の時間は同時に止まった。

〝諦めろ〟

　つまり――もう元には戻らない。
（そんな…………）
　史和も少なからずの衝撃を受けていた。
「どういう事だよ！　もう、こいつは直せないってのか？」
　思わず興奮して叫んだファイがバランスを崩して倒れてしまいそうになる。それをシータがなんとか支える。
「おい、どうなんだよ」
　ファイはなおも叫ぶが、ウォンカは微動だにしない。
　だが、やがてため息を一つ吐くと、
「やれやれ……せっかちだな」
　と、こぼした。
　史和と梨架も、ファイがその刀をどれほど大切にしているのかを知っているつもりだ。だから、ファイが叫ぶ気持ちが痛いほどわかる。
「では、あんたに訊こうか」
　ウォンカの口調が険しくなる。と同時に、睨むような視線を向ける。
「な、なんだ……ょ…………」
　語尾が小さくなるが、それでも負けないようにと気張っている。
「その腕前で勝てる自信はあるのか？」
「…………え？」
　ファイは一瞬、その言葉がわからなかった。
「お前の腕前で、同じ刀を使ってもまた折るだけだとは思わないのか？」
「………………」
　正論だった。
　だからこそ言い返せない。
　それはファイにもわかっている。
　自分が風伯を使っても、きっと折れてしまう。
　ベステートがファイの腕が上達するまで待ってくれるなんて悠長な事は考えていない。
　だけど――
　ファイにはそれしかない。
　風伯がファイの矜持なのだ。
「これを繋げる事は簡単だ。これほどの業物だ、火を入れれば甦るだろう。綺麗に折れてもいる。だが――それを使っても、また折れるのが関の山だろう」
　ようやく、史和はウォンカが諦めろと言った真意に気付いた。
　繋げるだけではダメだ。
　だけど……どうすれば。
　と、史和の目にあれが飛び込んでくる。
「ウォンカさん、あれを……」
　史和は壁に飾られている逆刃の剱を指す。
　梨架とファイ、シータもつられるようにそこを見る。
（なるほど…………こいつか……）
　ウォンカは仮面の下で口元を歪める。
（やはり、こうきたか…………。さて、お前はどうする？）
　ウォンカは心の中でその剱に訊く。
（試す価値はある……かもな）
　あの刀を見たせいだろうか、ようやく剱の主を見つけられるかもしれないと期待してしまう。
　だが……そう簡単に渡しては面白くない。
　と、小さな悪戯心がわく。
「……こいつか。さすがだな」
「ウォンカさん。いつらでも払います。この剱を…………」
　史和は必死に頼み込む。
（自分の事でもないのにこれほど必死になるなんてな……）
　その行動はウォンカの悪戯心を煽るだけだ。
「悪いが、こいつは売り物じゃないんだ」
　と、ウォンカはそう言い放つ。
「ウォンカさん…………本当に…………」
「金の問題じゃないんでな」
　食い下がる史和を優しくはあるが叱咤するように言う。
　言われて、史和は冷静さを取り戻す。
　自分でもどうしてあんな事を言ってしまったのか信じられない。お金さえ払えばなんとでもなると勘違いしてしまっていた。それは、最も自分が嫌っている人種なのに……。
「すみません……」
　史和はしゅんと俯く。
「フェイズさん、ありがとうございます」
　自分たちの事に一生懸命になってくれた史和にシータがお礼を言う。その気持ちだけでも嬉しい。
　だが、言われた史和はなんだか恥ずかしくなってしまう。
「そういうわけでな、こいつは売り物じゃない」
　そう言ってファイを見据える。
　ファイの頭の中は風伯の事でいっぱいで、目の前の剱にまで思考がまわらない。
　それが少しウォンカには面白くない。
（反応の薄い……。フェイズくらい反応してもらいたいものだ。だが……それほどまで、こいつに執心しているという事か……。ならば、なおのこと、試してみたくなる）
　天の邪鬼と言われようが、ウォンカの心は決まった。
「そこのあんた、ちょっとこいつを持ってみてくれないか」
　と、ウォンカは壁から剱を外すと、両手でファイの前に差し出す。
「………………」
　確かに立派なものだという事はファイにもわかる。
（確かにいい剱かもしれない。だけど…………）
　どうしても頭の中から風伯の事が離れない。
　これを手にしてしまったら、風伯を忘れてしまうという事と同義になってしまうのではないだろうか。そんな恐怖心がファイを支配する。
「安心しろ。別にこれを持ったからといって、必ずあんたにやるわけじゃない。あくまでも、持ってみろと言っているだけだ」
　ファイの心情を見透かしたようにウォンカが言う。
　それを受けて少し心が軽くなったファイは恐る恐る剱に手を伸ばす。

　――パチッ！

　一瞬電気が走った。
　ファイは反射的に手を引く。
　史和たちはどうなったのかわからなかった。ファイが触れた瞬間、火花のようなものが見えたような気がした。そして、音が聞こえたような気がした。
　でも、どうして……？
　ウォンカも素手で持っているが、彼はなんともない。
「………………ほぅ」
　と、唯一人、ウォンカだけが嬉しそうに頷いた。
（なるほど…………この坊主が剱の主か……。まあ、まだまだこれからというところだろうが、見込みはあるな）
　ファイはなにが起こったかわからず、ただ自分の手を見ている。
　ウォンカはなにも言わず、その剱を鞘に収める。
　そして――
「これは、あんたのものだ」
　押しつけるようにカウンターの上に置いた。
「…………えっ？」
　いったいどういう事なのかわからず、ファイは戸惑うばかりだ。
　史和もわけがわからない。
　さっきは売り物じゃないと…………。
「こいつは売り物じゃないってのは本当だ。だから、金はいらない」
　ウォンカはニヤリと笑う。
「こいつはな、主を待っていたんだ。ずっと、な」
　そう言って、ウォンカはファイをまっすぐに見る。
「…………もしかして、俺？」
　見られたファイは狼狽える。
「そうだ。あんたがこいつの主だ」
「でも、どうして…………」
　いきなり剱の主だと言われても、理解できないのが当たり前だ。
「こいつを持った時、電気が流れただろ？」
　ファイは無言で頷く。
「そいつは、こいつが主と認めた証だ」
　電気が証？
　ますますもってわけがわからない。
「こいつはちょっと特殊な剱でな……。持ち主を選ぶんだ。まるで意思があるようにな。別に、持ち主以外が持てないというわけじゃない。もちろん、普通に剱としては使える。だが――こいつの本来の力を使えるのは、こいつが選んだ主だけだ。
こいつは、その主を――つまり、あんたをずっと待っていたのさ」
「意思が……ある？」
（まるでメルヘンかファンタジーだ。意思があるって、いかれちまったとしか思えないぞ。でも……）
　にわかには信じがたいが、現に電気が走った事は事実だ。
　恐る恐るファイはもう一度その剱に手を近づける。
「………………」
　ゴクリと唾を飲み込む。
　そして――

　――――――

　なにも起こらない。
「最初のあれは、持ち主を示すための挨拶のようなものさ。常に帯電しているわけじゃない」
　と、説明してくれる。
「今はまだ使いこなせないだろうが、あんたの腕が上がればこいつはそれに応えてくれる。本当の力を貸してくれるだろう。まあ、その時が来るといいがな」
　そう言ってウォンカは豪快に笑う。
「まあ、そいつの主が見つかったのはいいとして――こいつだな」
　そう言ってウォンカは風伯を持つ。
「見事に折れている……。この刀身じゃ折れるだけだろう」
　改めて聞かされると余計に痛い。
「これを捨てる事は――」
　一瞬ファイを見る。
「――できるはずがないだろうな。もっとも、簡単に捨てる事ができるようなヤツを、主に選ぶとは思えないしな」
　どうしたものかと、ウォンカは腕を組んで考え始める。
「刀身を鍛え直す事はできませんか？」
　そう言うが早いか、ファイは風伯を分解し始める。
　まさか分解できるとは思っていなかったウォンカは、感心してそれを見ている。
（すごい……。頑強でいながら分解もできるとは……。素晴らしい技術だ。だが……）
　そう、技術はすごい。しかし、火を入れたところで強くする事は難しい。これはここで完成してしまっている。これ以上を望むのは酷だ。
　だが……分解できるのなら。
「悪いが、これをこれ以上に鍛える事は不可能だ」
　それを聞いたファイは落胆の色を隠せない。
「だが――」
　場の空気が一瞬止まる。
「――新たな刀身を打つ事はできる」
　新しい刀身――それは、ファイが望むものではない。あくまでも、この刀身でないと――でないと、これは風伯ではなくなってしまう。
　それは、今まで一緒に旅をしてきた風伯を捨てる事と同じだ。
「どうしても、この刀身を甦らせる事はできないのか？」
　自然と苛立ちが口調に現れる。
「ファイ……」
　たしなめるようにシータが言うが、彼女としても気持ちは同じだ。
　史和と梨架も言いたい事はあるが、あくまでも部外者だ。これ以上はなにも言えない。
　もどかしいが、見ているしかできない。
「折れるだけだぞ」
　ウォンカははっきりと言い切る。
「変に希望を持たれても困るからこそハッキリ言う。あの刀身で勝つ事は不可能だ。腕の問題じゃない。刀身が限界なんだ」
「………………」
　気持ちがいいほど言い切られて言葉が出ない。下手な同情をされるよりはいいが、直球で言われるのも堪える。
「好都合なのが、分解できるという事だ。新しい刀身に入れ替える事ができる。生まれ変わる事ができる」
　ウォンカは、どうするんだ？　という顔でファイを見る。
　今の風伯ではこの先――ただの飾りになってしまう。あの逆刃の剱に頼る事になってしまう。
　かといって、ここで風伯を捨てる事はできない。
　折れたままにしておく事もできない。
　どうしたら――
　どうすればいい……？
　思考がグルグル回ってどうすればいいのか、解決の糸口が見えてこない。
「そこで提案なんだが、こいつを切ってみる気はないか？」
　ウォンカの口から出た言葉がよくわからない。
「…………どういう事、ですか？」
　すがるような目で見る。
「この折れてしまった刀を切って、短刀にするんだ。もちろん、持ち手は新しく作る。鞘もな。それで、新しい刀身を鍛え上げて、こいつに付ける。どうだ？」
　折れた風伯を切って短刀にして、新しい風伯を打つ……？
　それなら、風伯を残す事ができる。
　違う形になってしまうけど、確かにそれなら……。
「シータ……」
　意見を求めようとシータを見る。
「ファイの思いようにしていいよ」
　シータは笑顔で頷いた。
「………………」
　ファイは目を閉じて考え込む。
　このまま風伯を捨てるか――それはダメだ。
　折れるとわかっている風伯を使うか――捨てるよりはマシだ。
　風伯を切って、短刀として甦らせるか――それもいいかもしれない。
　でも――それは風伯じゃなくなってしまう気がする。
　新しい刀身を風伯として――
　決めた。
　もう迷わない。
「新しい刀身を打って下さい。風伯は短刀に打ち直して欲しい」
　それが、ファイの出した答えだった。
「ファイ……」
　シータはそれでいいと思った。それが一番いいと思った。ただちょっと、口調が乱暴だとは思ったけれど。
「よろしくお願いします」
　ファイは頭を下げた。シータに支えられたままなので不格好だが、それでも気持ちはウォンカに伝わった。
「任せておきな」
　ウォンカは力強く言った。
　自然と四人の顔に笑顔が浮かぶ。
「ありがとうございます」
　ファイの口から自然とその言葉が出てきた。


　現在更新を休止しています。次回更新は未定です。

―天才の国―




　現在『仮面の国』が連載中です。
　更新をお待ち下さい。

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―二択の国―




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―物の怪の街―




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×××××




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